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JITTERIN'JINN / 8-9-10! Jitterin' Jinn Best


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JITTERIN'JINN /   ”8-9-10! Jitterin' Jinn Best ” / 1999

 






僕が初めて観た邦楽のライブがジッタリン・ジンだった(ちなみに洋楽はアース・ウィンド・アンド・ファイアー)。
それも、タダ見だった。当時いた京都の某私大の学祭のライブに彼らがやってきて、スタッフをやってた僕は客席の警備みたいなことをやってたんだが、客席に背を向けてずっとステージの方を見ていた。

「わ~い、ジッタリン・ジンだよお!」と言いながら春川玲子さんがなんか奇妙にクネクネ体を揺らすように跳ねながら現れて、「エブリデイ」の演奏が始まったが、とにかく「意外に振り付けが面白い」、「意外によく踊る人」というのが事前にTVの歌番組なんかで知ってた印象とは違っていた。「プレゼント」がヒットしてベストテン番組なんかで見てたときはもっと地味で無愛想な表情で淡々と歌ってた気がしてた。だけど学祭ライブではやたら生き生き踊ってたから意外だった。初っ端の「エブリデイ」でベーシストが弾いてるウッドベースを横倒しにすると、その上に乗っかって器用に体を揺らして踊って歌ってたのが結構驚かされて、なかなか面白いことをやる元気なフロントマンだなと思った。

もっとも、僕がライブで見た頃はジッタリン・ジンはすでにメジャーシーンから消えて「過去の人」という認知をされていた。「イカ天バンドブーム」の熱がすっかり冷え込んで、いろんなバンドがあっという間に消えていった頃だった。それだけにウッドベースの上に乗っかって歌う春川さんのコケティッシュなフロントぶりはTVで見てた頃とは真逆で、その元気の良さは全く精彩を欠いてはおらず、むしろメジャーの頃より勢いを感じて、「消えてった過去の人」って僕の先入観を小気味よく打ち破った。


ジッタリン・ジンと言えばスカコア(というか正確にはスカ・パンク)のハシリみたいによく言われてるわけだけど、ロカビリーだとかパンクだとか歌謡曲だとか果ては沖縄民謡まで結構いろんなジャンルの美味しい部分を取り込んで、トータルにはロックスタディみたいな雰囲気を初めて邦楽ポップに定着させたようなバンドだと思う。そういうバンドは例えば他にはフィッシュマンズなんかがいるけど、フィッシュマンズが日本の若い人たちの非常にシリアスなルードボーイ的テーマを扱ったのに対して、ジッタリン・ジンはルードボーイの専ら恋愛の部分、しかもすごく思春期の最初の頃の初恋だとか失恋の初々しさにモチーフを絞り込んで、そういうのを日本の歌謡曲なんかの要素をバタ臭さのない感じで混ぜ込んで、独特の和風テイストな空気のロックステディとして消化したバンドじゃないかな。そういう意味では洋楽っぽいフィッシュマンズとは違って、輸入したスカとかレゲエとかのロックステディと言うんじゃなくて、もっと歌謡曲に馴染んだ幅広いオーディエンスに向けた聴き易さがある。そういうのは洋楽よりのリスナーにとっては「なんだ、歌謡曲じゃん」みたいな垢抜けないイメージでもあるんだけど、僕自身はジッタリン・ジンは「和風ロックステディ」を国内から産み出してスカパンクをやりながらそれを強調し過ぎずにあくまでキャッチーな「歌謡曲もどき」にやってこなせたバンドだと思う。あの90年代初頭のバンドブームの過熱期のなかでジッタリン・ジンが他のバンドと一線を隔した部分があるとすれば、彼らがスカパンクをかなり早い時期に試みながら、それを初めから極めて日本的なポップスとして幅広い層に意識させる聴かせ方を実践していたことじゃないだろうか。

僕はジッタリン・ジンをリアルタイムにメジャーで活動してた頃は完全に洋楽フリークで、基本的に洋楽と比較して邦楽を聴くような方法を取る(それは今もあまり変わらない)。だからジッタリン・ジンを初めて意識的に聴いたころ、ちょうど彼らがインディーズに帰った時期だったが、何気なくTVで「プレゼント」を聞いてたバンドがスカをやってたというのは後から聴いて驚いた。最近になってネット視聴でデビュー直前のアマ時代のジッタリン・ジンの映像を見て、CDで聴いてた感じよりも、もっと強烈なテンションの高さで演奏していたのにも今更ながら驚かされた。スカパンクというよりもほとんど70年代ロンドン初期パンクみたいな荒削りなガレージロックっぽく聞こえたりする(特に春川さんのボーカル。なんか絶叫してる)。改めて聴いてみると、破矢ジンタのギターのカッティングのフレーズはあまり他のギタリストでは見られない独特な感じで、それがどこかレトロっぽいというような和風テイストのジッタリン・ジンのスタイル全体の雰囲気を決定づけている。ドラムの入江美由紀は好きなドラマーとして、キース・ムーンだとかスチュワート・コープランドを挙げているけれど、なんかそれはすごくよく分かって、とにかくテクニックがめちゃくちゃ上手いんだけど、部分的にドラムだけでメロディを感じさせるようなパートがあってそれがコープランドっぽい。ちなみにドラムのリムをやたらカチカチ小刻みに叩くようなリムショットをやるのはあまり聴いたことがなくて、高橋幸宏と入江さんぐらいしか僕は知らない(「夏祭り」でのリム叩きは完全に歌詞の雰囲気にハマってると思う)。それで春川玲子のボーカルの「クール唱法」とも呼べそうなスタイルは彼女の歌ってるときの無表情っぷりと合わせて印象的なんだけど、歌詞の内容に対してその対象をことごとく半ば蓮っ葉に突き放すようなクールっぷりはそれ自体彼女のボーイッシュなキャラにとても似合ってる。そういう突き放したクールな速いテンポの歌詞の歌い飛ばし方は、昨今のJ-POP(だけじゃなく過去においてもそうかもしれないが)によくあるやたらソウルフルに「心込めてます」的なボーカルのウェットぶりと比べるとそれは結構軽快で心地いいんだが、そのボーカルのクールなスタイル、歌詞の内容との距離の取り方が、逆にジッタリン・ジンの歌のイメージである「切ない恋心」のような光景を最も色鮮やかで物語的に高めていく抜群の効果を生む。春川さんのクールなボーカルをどのように深く印象づけるかということにバンド・アンサンブルの狙いが集中されていて、それが結果的にジッタリン・ジンが「歌ごころ」をじっくりと聴かせることにおいて実に秀抜なバンドである独自性を与えている。


ジッタリン・ジンの楽曲の多くは(というかほとんど)、「結局、うちらの曲って全部、ラヴ・ソングなわけやから」(春川玲子)なんであって、僕がこの文章の中で彼らの曲を、日本のルードボーイの恋愛の部分、だとか、和風ロックステディ、って説明してるけど、分かりやすく言えば結局は「青春ソング」の括りで普通は語られるやつだと思う。だけど中高生ぐらいの若年層の日常みたいなものを扱っていても、ジッタリン・ジンはいわゆる「青春パンク」と呼ばれるロックだとは思わない。そういうカテゴリで扱われやすいスカパンクとかパンクス分野で作られる歌とは昔も今も一線を隔してる。

僕はいつも思うんだけど、「どぶね~ずむぃー、みたいにぃ~美しくな~りぃたあい~」だとか「見えない自由が欲しくてぇ~、見えない銃をうちまくるぅ~」みたいなことを母国語であんまり聴きたいとは思わない。そういうのは外国のPUNKだとかティーンロックらの専売特許の輸入品で、日本人は作ると無残な劣化コピーに陥りやすいと思ってる。尾崎豊とか聞くと、なにかロックの持つ若さの性急さみたいなのを穿違えてる気がする。でも尾崎批判の歌を作った青春パンクの代表格みたいなガガガSP(彼らはそういう括られ方に開き直ってる節があるが)を聴いてると、なんか、こっ恥ずかしいというか、やりすぎというか、テーマを歌う前に歌詞を書く頭が足りない(国語ができてない)と思ってしまう。ガガガのファンの知人から『卒業』ってCD(だったかな)借りたとき、あまりにも歌いたいことを全部言い尽くそうとする詰め込み方にゲンナリした。青春パンクは「歌詞に奥行きがない」「説教臭い」とか批判されるが、そもそも「歌詞」と思えない。「詩」じゃない。「比喩」とか「描写」が全く存在しない「拙い作文」を歌うバンドが売れてしまうこと自体、「国難」に思える。ガガガSPに『声に出すと赤っ恥』ってアルバムがあるがまさに「歌詞を歌うと赤っ恥」状態。







ジッタリン・ジンのほとんどの曲を手がける破矢ジンタが、綺麗であるだけじゃなくいろんなジャンルを跨いだ節をこなせる稀有なメロディメイカー言うまでもないが、彼は作詞家という立場でも邦楽シーンの中でなかなかに個性的な存在である。僕は彼らがTVに出まくってたころは(頑固な洋楽フリークってこともあって)、当時ヘビロテ状態だった「プレゼント」は単にチープで子供っぽい曲だと思ってた。それが彼らのライブを見てショックを受けた後、「プレゼント」をコンパの二次会とかで歌ってたんだが、歌ってみるとこれが実に最小限の表現で言い足りないことを言わずに多くの余韻を残す歌なんだと見直した。「あなたが、わたしに、くれたもの~」ってフレーズに呼応して体言止めが「これでもか!」みたいに続きまくって「さよなら~してあげるわー」のサビに繋がるわけだけど、僕は歌詞が付いたあらゆる分野の曲の中でこれほどまでに体言止めが執拗に連発される歌を他に知らない。しかも、「わたしにくれたもの」の並べ方が実にきちんと計算されていて、「アメリカ生まれのピーコート」だったり「中国生まれの黒い靴」「フランス生まれのセルロイド」と続けられてピークが高まった最後の最後に「あなたがわたしにくれたもの」が「あの日生まれた恋心」だなんて盛り上がりをしっかり盛り上げてキメてしまう。「あなたがわたしにくれた」たくさんの「モノ」がいっぱいあるんだけど、「あなたがわたしにくれた」いろんなもののなかで一番切実で一番大事にくれたものがそういう言葉でしか言い表せないしっかり「わたし」の心にだけ贈ってくれて「わたし」だけが見える「モノ」の価値じゃ計れないもの、なんだなんて説明するのはすっごく野暮だけど、「プレゼント」は最後の最後に野球で言う決め球のフォークみたいなのでしっかり三振が取れる歌なのだ。「シャガールみたいな青い夜」だとか「夢にまで見た淡い夢」もそうだけどこういう比喩の煌きや切ないものを短く言い切る言葉ができるのは本当にすごいと思う。同時にこういうセンスの才能をメジャーで選び出したオーディエンスたちの時代の空気みたいなのは、今にして思えば、売れる歌をしっかり聴いていて幸せな時代だったんだなと思うけど。

「プレゼント」一つ取っても秀抜なんだけど、他のヒット曲も、本当にジッタリン・ジンの非凡さ、とか言うより彼らにしかやれなくてカバーするのが非常に難しい特権的な奇抜さがある。ヨーデルみたいな節回しがあるかと思えば沖縄民謡みたいな音で歌ってる内容はロシア民謡の「一週間」みたいな「にちようび」(PVもあの時代にしては面白い。今でこそああいう趣味を強調する人たちがいっぱいいるけど)。さだまさしの「案山子」みたいな内容だけど、もっと砕けて軽く言う女の子の気持ちがじーんとする「帰っておいで」、ほとんど特別な中身なんかない内容なんだけど実は“女の子歌”で今まで誰も歌ってこなかったニッチセンスが光る「プリプリダーリン」、50’sオールディーズ・スタイルを刺身のツマにして日本の中学生を歌ってみたらこんな歌謡曲を発明しましたみたいな「アニー」「相合傘」。破矢ジンタは日本のティーンエイジの心象風景を描写させると実に巧いが、あまり他人が真似できない癖みたいなのがあってそういう変化球がジッタリン・ジンの奇抜なカラーを形作ってる。しかも歌詞といえば歌詞なんだが歌詞の技巧を極力使わず、演奏の音がなくても目で読むだけで平素な日本語で、文章に近い、でもあくまで詩として読める歌詞を描ける作詞家としても稀有な実力を持っている。つまり「余計な修辞で飾らない、言葉数が少なくて余韻を残す描写をする」、それで「誰でも目で読んでも分かる」ことを歌詞にできる人という意味だ。はっぴいえんどみたいな大御所を筆頭に、昔はそういう作詞をする人は割りとよくいたけれど、メガヒットチャートを除けば、今の主流はフリッパーズ・ギターだとかスピッツの「ロビンソン」なんかの頃から目立ってきた油絵みたいに修辞を塗ったキャンバスにに更に修辞を何重も塗り重ねるような「極端に比喩の重量に偏向気味」で「雰囲気を読み取ることをリスナーに強要する」作詞が多い。青春パンクはといえば、「歌詞じゃなく単なる説明文」にまで没落した惨状だ。分かりやすい日本語で「人の感情を俳句みたいに端的で素朴に情景描写できる作詞家」、しかも「英語を不必要に乱用しない作詞家」と絞り込んで、今の若い人たちの心象風景を描けるのは、破矢ジンタはそういうのができる人だと思うが、他に探してみても僕はピチカート・ファイヴの小西康陽ぐらいしか意外と思い浮かばない。小西にしても破矢にしても等身大の“女の子歌”とかナイーヴな“男の子歌”とかを描かせれば、平素な修辞で少ない情報量にして抜群に分かりやすく本人の性に関係なく客観的に歌詞を描ける。ただ、小西さんが極端に洋楽的(というか欧州映画的)で、しかも「ピチカート・マニア」という具合にリスナーを限定する、もしくは作者がリスナーを選択するのに比べて、破矢さんは歌謡曲並みに純邦楽的で、やはりリスナーは幅広くないかもしれないが、小西さんのように映画に啓蒙された作風のように特化されてないぶんだけ、聞き手の背景だとか環境とか体験だとか育ちとか地理なんかで聞き手を限定しないと思う(地理という部分では「渋谷系」は随分とリスナーを意図的に振り分けるので、そういう点は鼻持ちならない)。

破矢さんの場合、小西さんが描くある程度成熟した年齢を対象にするのと比べると、ぐっと幼い若年層を描くパターンが多い。ただ、成熟度に関して考えるなら、人のライフサイクルはある一定の年齢からスパッと枝分かれして個々の生き方が多様化されるものだから、なかなか多様な人生に共有され得る体験とかシーンを描けない。人は誰しも同じ分だけ皆が成熟するわけでもなく、そもそも成熟度を測るような物差しなんて有るわけがない。ただ人によって体験の内容による数とか偏り方が無限に異なるだけだ。「恋愛」なんてのはその代表例で、誰しもフランス映画とか昼のメロドラマみたいな体験を踏襲するわけじゃない、ああいうのは恋愛至上主義で人を集約してるつもりの虚構であって、「あったらいいな」ぐらいのものなのに誰かが「あって当然」みたいに気づいたら人の人生を尺度で測ってたりする、とんでもなくインチキみたいなもんだと、僕自身は思ってる。人の人生を描いて、歌ったりする場合、イメージを描いてみたところで、それは裾野が広いようで実はすっごく惨めなくらい想像力が乏しくて、「こういう感じかも・・・・」という感じで限られた人生のイメージを何とか駆使して創作しているに過ぎない。そういう一種の諦念みたいなところから創作が始まらなきゃ、ウソだと僕は思う。

ジッタリン・ジンの代表曲の一つ、「夏祭り」なんか、“打ち上げ花火”とか“金魚すくい”といったアイテムに溢れるとても日本的情緒の曲だ。でもラヴソングの一つとして見れば、思春期の早い時期に人の心に飛び込んでくる恋愛の情動、みたいな、比較的いろんな人の人生の中で幼い時に心に浮かんだんじゃないかと言える風景をくっきり描き出して、巧みにそういう恋心の揺れ方にありがちなパターンを再現している。比較的多くの人にあったんじゃないかと仮定できる事柄を実にその渦中の当事者であるかのように写実して、ありがちなノスタルジーをテーマにしたってことでは普遍的な名曲だと思う。ざっくり言ってしまえば、夏祭りに好きだった女の子と出かけていって“手をつなげなかったこと”や“好きだってことが言えなかった”ってことが意味があるわけで、なぜかって言えば「手を繋げた人」も「繋げなかった人」の両方の体験をを受け止められるからだ。それと、手を繋いだかどうか、好きって言えて両思いになれたかどうかは重要じゃなくて、それ以前に、手を繋ぐことや好きって告白することが、とても勇気という言葉以上の重さがのしかかる、そんな、恋愛という激しい情動にとてつもなく無力だった一時期をあれはもう「遠い夢の中」と回顧する思いが、その後の人生の恋愛の中で個々の人がどのような結果や道のりを歩んだとしても、原点に帰れば、比較的多くの皆がそこから全部始まってたんじゃないかっていうところにこの歌のモチーフがあるからだ。それが普遍的なラヴソングとしての条件をある一定の水準で満たしてるんだと思う。「アニー」って曲なんかにもそれは言えるわけで、あの曲なんかは、「人を好きになる」ってことの人生の中で一番最初の姿を馬鹿馬鹿しいくらい単純にデフォルメしてるわけで、「人と愛し合う」ということ以前に「人に惹かれる」っていう、人と気持ちを共有する以前のいわゆる「片思い」の輪郭を無駄な贅肉を取ってスパッと歌いきるところに意味がある。ジッタリン・ジンのほとんどの楽曲が、かなり若年層のシンプルな男の子・女の子の心象風景をラヴソングにしているのは、彼らが意図せずともそういうテーマだからこそこれまで脈々と長く愛されて本人たちも活動し続けてこれた理由になってるんじゃないか。しかもできるだけ軽快に分かりやすく、それでできるだけ等身大にそういう男の子・女の子、ほんの子供だったからこそ一際甘く、何事も人生動かすみたいに切実だった、そういうことをしっかり捉えてるのは大事なことで、そういうことが比較的普遍的に人の人生を歌えてて、そういう普遍性をもったパンクをロックステディと呼ぶのだと思う。


暑い夏がやってきて、今年もほとんどこの季節の風物詩の定番みたいに「夏祭り」がFMラジオとかから流れてくる。

メジャーシーンで人気がまだ絶頂にあったにも関わらずインディーに戻っていったジッタリン・ジン。彼らを大学の学祭で初めて見てから数年後、深夜のTVで流れるPVCMで突如彼らに再会した。春川さんはパツキンにしてアコーディオンを弾いていた。「自転車」って曲だったかな、メジャーシーンでいた頃とあまり変わらない、やっぱりノスタルジックで軽快なスカパンクをやってるのを見て、彼らがずっとそれをやり続けていることがとても嬉しかったのを覚えている。

その「自転車」の頃からもっと時間が経って、何年も夏が過ぎて、僕ももう30を過ぎた。

この間、同い年の女友達と喫茶店でカキ氷を食べてた。なんだか、相手は既婚者で僕は独身なんだけど、そんなの関係なく、30過ぎてんのに、喫茶店で女の子とカキ氷を食べてほのぼのとささやかに楽しく時間を過ごしてることが、なんかそういう自分とか自分と相手との二人が可笑しく思えて、なんだかジッタリン・ジンが聴きたくなったわけだ。

久々に聴いてみると、思いに反して案外しんみり切なくなった。・・・・・・・30過ぎてるんだけどな。

このアルバムは彼らのベスト。代表曲のほとんどが入ってて、懐かしいし、ノスタルジックに聴くのもいいし、あんまり昔と変わらない気持ちで聴けるかもしれない。

インディーに帰ってからの曲もクオリティが高い。「マリアン」とか「泣き顔のマリー」みたいなほとんどハードコアみたいな曲もやってて、そういう試みに挑戦する姿も嬉しい。

「クローバー」なんか個人的に泣けるな。


いつまでもやっていて欲しいバンド。






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(1999/10/01)
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回復的文章

[3]

素晴らしい記事有難うございました。

私は特にジッタのヘビーなファンではないのですが感動しました。

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