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JITTERIN'JINN / 8-9-10! Jitterin' Jinn Best


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JITTERIN'JINN /   ”8-9-10! Jitterin' Jinn Best ” / 1999

 






僕が初めて観た邦楽のライブがジッタリン・ジンだった(ちなみに洋楽はアース・ウィンド・アンド・ファイアー)。
それも、タダ見だった。当時いた京都の某私大の学祭のライブに彼らがやってきて、スタッフをやってた僕は客席の警備みたいなことをやってたんだが、客席に背を向けてずっとステージの方を見ていた。

「わ~い、ジッタリン・ジンだよお!」と言いながら春川玲子さんがなんか奇妙にクネクネ体を揺らすように跳ねながら現れて、「エブリデイ」の演奏が始まったが、とにかく「意外に振り付けが面白い」、「意外によく踊る人」というのが事前にTVの歌番組なんかで知ってた印象とは違っていた。「プレゼント」がヒットしてベストテン番組なんかで見てたときはもっと地味で無愛想な表情で淡々と歌ってた気がしてた。だけど学祭ライブではやたら生き生き踊ってたから意外だった。初っ端の「エブリデイ」でベーシストが弾いてるウッドベースを横倒しにすると、その上に乗っかって器用に体を揺らして踊って歌ってたのが結構驚かされて、なかなか面白いことをやる元気なフロントマンだなと思った。

もっとも、僕がライブで見た頃はジッタリン・ジンはすでにメジャーシーンから消えて「過去の人」という認知をされていた。「イカ天バンドブーム」の熱がすっかり冷え込んで、いろんなバンドがあっという間に消えていった頃だった。それだけにウッドベースの上に乗っかって歌う春川さんのコケティッシュなフロントぶりはTVで見てた頃とは真逆で、その元気の良さは全く精彩を欠いてはおらず、むしろメジャーの頃より勢いを感じて、「消えてった過去の人」って僕の先入観を小気味よく打ち破った。


ジッタリン・ジンと言えばスカコア(というか正確にはスカ・パンク)のハシリみたいによく言われてるわけだけど、ロカビリーだとかパンクだとか歌謡曲だとか果ては沖縄民謡まで結構いろんなジャンルの美味しい部分を取り込んで、トータルにはロックスタディみたいな雰囲気を初めて邦楽ポップに定着させたようなバンドだと思う。そういうバンドは例えば他にはフィッシュマンズなんかがいるけど、フィッシュマンズが日本の若い人たちの非常にシリアスなルードボーイ的テーマを扱ったのに対して、ジッタリン・ジンはルードボーイの専ら恋愛の部分、しかもすごく思春期の最初の頃の初恋だとか失恋の初々しさにモチーフを絞り込んで、そういうのを日本の歌謡曲なんかの要素をバタ臭さのない感じで混ぜ込んで、独特の和風テイストな空気のロックステディとして消化したバンドじゃないかな。そういう意味では洋楽っぽいフィッシュマンズとは違って、輸入したスカとかレゲエとかのロックステディと言うんじゃなくて、もっと歌謡曲に馴染んだ幅広いオーディエンスに向けた聴き易さがある。そういうのは洋楽よりのリスナーにとっては「なんだ、歌謡曲じゃん」みたいな垢抜けないイメージでもあるんだけど、僕自身はジッタリン・ジンは「和風ロックステディ」を国内から産み出してスカパンクをやりながらそれを強調し過ぎずにあくまでキャッチーな「歌謡曲もどき」にやってこなせたバンドだと思う。あの90年代初頭のバンドブームの過熱期のなかでジッタリン・ジンが他のバンドと一線を隔した部分があるとすれば、彼らがスカパンクをかなり早い時期に試みながら、それを初めから極めて日本的なポップスとして幅広い層に意識させる聴かせ方を実践していたことじゃないだろうか。

僕はジッタリン・ジンをリアルタイムにメジャーで活動してた頃は完全に洋楽フリークで、基本的に洋楽と比較して邦楽を聴くような方法を取る(それは今もあまり変わらない)。だからジッタリン・ジンを初めて意識的に聴いたころ、ちょうど彼らがインディーズに帰った時期だったが、何気なくTVで「プレゼント」を聞いてたバンドがスカをやってたというのは後から聴いて驚いた。最近になってネット視聴でデビュー直前のアマ時代のジッタリン・ジンの映像を見て、CDで聴いてた感じよりも、もっと強烈なテンションの高さで演奏していたのにも今更ながら驚かされた。スカパンクというよりもほとんど70年代ロンドン初期パンクみたいな荒削りなガレージロックっぽく聞こえたりする(特に春川さんのボーカル。なんか絶叫してる)。改めて聴いてみると、破矢ジンタのギターのカッティングのフレーズはあまり他のギタリストでは見られない独特な感じで、それがどこかレトロっぽいというような和風テイストのジッタリン・ジンのスタイル全体の雰囲気を決定づけている。ドラムの入江美由紀は好きなドラマーとして、キース・ムーンだとかスチュワート・コープランドを挙げているけれど、なんかそれはすごくよく分かって、とにかくテクニックがめちゃくちゃ上手いんだけど、部分的にドラムだけでメロディを感じさせるようなパートがあってそれがコープランドっぽい。ちなみにドラムのリムをやたらカチカチ小刻みに叩くようなリムショットをやるのはあまり聴いたことがなくて、高橋幸宏と入江さんぐらいしか僕は知らない(「夏祭り」でのリム叩きは完全に歌詞の雰囲気にハマってると思う)。それで春川玲子のボーカルの「クール唱法」とも呼べそうなスタイルは彼女の歌ってるときの無表情っぷりと合わせて印象的なんだけど、歌詞の内容に対してその対象をことごとく半ば蓮っ葉に突き放すようなクールっぷりはそれ自体彼女のボーイッシュなキャラにとても似合ってる。そういう突き放したクールな速いテンポの歌詞の歌い飛ばし方は、昨今のJ-POP(だけじゃなく過去においてもそうかもしれないが)によくあるやたらソウルフルに「心込めてます」的なボーカルのウェットぶりと比べるとそれは結構軽快で心地いいんだが、そのボーカルのクールなスタイル、歌詞の内容との距離の取り方が、逆にジッタリン・ジンの歌のイメージである「切ない恋心」のような光景を最も色鮮やかで物語的に高めていく抜群の効果を生む。春川さんのクールなボーカルをどのように深く印象づけるかということにバンド・アンサンブルの狙いが集中されていて、それが結果的にジッタリン・ジンが「歌ごころ」をじっくりと聴かせることにおいて実に秀抜なバンドである独自性を与えている。


ジッタリン・ジンの楽曲の多くは(というかほとんど)、「結局、うちらの曲って全部、ラヴ・ソングなわけやから」(春川玲子)なんであって、僕がこの文章の中で彼らの曲を、日本のルードボーイの恋愛の部分、だとか、和風ロックステディ、って説明してるけど、分かりやすく言えば結局は「青春ソング」の括りで普通は語られるやつだと思う。だけど中高生ぐらいの若年層の日常みたいなものを扱っていても、ジッタリン・ジンはいわゆる「青春パンク」と呼ばれるロックだとは思わない。そういうカテゴリで扱われやすいスカパンクとかパンクス分野で作られる歌とは昔も今も一線を隔してる。

僕はいつも思うんだけど、「どぶね~ずむぃー、みたいにぃ~美しくな~りぃたあい~」だとか「見えない自由が欲しくてぇ~、見えない銃をうちまくるぅ~」みたいなことを母国語であんまり聴きたいとは思わない。そういうのは外国のPUNKだとかティーンロックらの専売特許の輸入品で、日本人は作ると無残な劣化コピーに陥りやすいと思ってる。尾崎豊とか聞くと、なにかロックの持つ若さの性急さみたいなのを穿違えてる気がする。でも尾崎批判の歌を作った青春パンクの代表格みたいなガガガSP(彼らはそういう括られ方に開き直ってる節があるが)を聴いてると、なんか、こっ恥ずかしいというか、やりすぎというか、テーマを歌う前に歌詞を書く頭が足りない(国語ができてない)と思ってしまう。ガガガのファンの知人から『卒業』ってCD(だったかな)借りたとき、あまりにも歌いたいことを全部言い尽くそうとする詰め込み方にゲンナリした。青春パンクは「歌詞に奥行きがない」「説教臭い」とか批判されるが、そもそも「歌詞」と思えない。「詩」じゃない。「比喩」とか「描写」が全く存在しない「拙い作文」を歌うバンドが売れてしまうこと自体、「国難」に思える。ガガガSPに『声に出すと赤っ恥』ってアルバムがあるがまさに「歌詞を歌うと赤っ恥」状態。







ジッタリン・ジンのほとんどの曲を手がける破矢ジンタが、綺麗であるだけじゃなくいろんなジャンルを跨いだ節をこなせる稀有なメロディメイカー言うまでもないが、彼は作詞家という立場でも邦楽シーンの中でなかなかに個性的な存在である。僕は彼らがTVに出まくってたころは(頑固な洋楽フリークってこともあって)、当時ヘビロテ状態だった「プレゼント」は単にチープで子供っぽい曲だと思ってた。それが彼らのライブを見てショックを受けた後、「プレゼント」をコンパの二次会とかで歌ってたんだが、歌ってみるとこれが実に最小限の表現で言い足りないことを言わずに多くの余韻を残す歌なんだと見直した。「あなたが、わたしに、くれたもの~」ってフレーズに呼応して体言止めが「これでもか!」みたいに続きまくって「さよなら~してあげるわー」のサビに繋がるわけだけど、僕は歌詞が付いたあらゆる分野の曲の中でこれほどまでに体言止めが執拗に連発される歌を他に知らない。しかも、「わたしにくれたもの」の並べ方が実にきちんと計算されていて、「アメリカ生まれのピーコート」だったり「中国生まれの黒い靴」「フランス生まれのセルロイド」と続けられてピークが高まった最後の最後に「あなたがわたしにくれたもの」が「あの日生まれた恋心」だなんて盛り上がりをしっかり盛り上げてキメてしまう。「あなたがわたしにくれた」たくさんの「モノ」がいっぱいあるんだけど、「あなたがわたしにくれた」いろんなもののなかで一番切実で一番大事にくれたものがそういう言葉でしか言い表せないしっかり「わたし」の心にだけ贈ってくれて「わたし」だけが見える「モノ」の価値じゃ計れないもの、なんだなんて説明するのはすっごく野暮だけど、「プレゼント」は最後の最後に野球で言う決め球のフォークみたいなのでしっかり三振が取れる歌なのだ。「シャガールみたいな青い夜」だとか「夢にまで見た淡い夢」もそうだけどこういう比喩の煌きや切ないものを短く言い切る言葉ができるのは本当にすごいと思う。同時にこういうセンスの才能をメジャーで選び出したオーディエンスたちの時代の空気みたいなのは、今にして思えば、売れる歌をしっかり聴いていて幸せな時代だったんだなと思うけど。

「プレゼント」一つ取っても秀抜なんだけど、他のヒット曲も、本当にジッタリン・ジンの非凡さ、とか言うより彼らにしかやれなくてカバーするのが非常に難しい特権的な奇抜さがある。ヨーデルみたいな節回しがあるかと思えば沖縄民謡みたいな音で歌ってる内容はロシア民謡の「一週間」みたいな「にちようび」(PVもあの時代にしては面白い。今でこそああいう趣味を強調する人たちがいっぱいいるけど)。さだまさしの「案山子」みたいな内容だけど、もっと砕けて軽く言う女の子の気持ちがじーんとする「帰っておいで」、ほとんど特別な中身なんかない内容なんだけど実は“女の子歌”で今まで誰も歌ってこなかったニッチセンスが光る「プリプリダーリン」、50’sオールディーズ・スタイルを刺身のツマにして日本の中学生を歌ってみたらこんな歌謡曲を発明しましたみたいな「アニー」「相合傘」。破矢ジンタは日本のティーンエイジの心象風景を描写させると実に巧いが、あまり他人が真似できない癖みたいなのがあってそういう変化球がジッタリン・ジンの奇抜なカラーを形作ってる。しかも歌詞といえば歌詞なんだが歌詞の技巧を極力使わず、演奏の音がなくても目で読むだけで平素な日本語で、文章に近い、でもあくまで詩として読める歌詞を描ける作詞家としても稀有な実力を持っている。つまり「余計な修辞で飾らない、言葉数が少なくて余韻を残す描写をする」、それで「誰でも目で読んでも分かる」ことを歌詞にできる人という意味だ。はっぴいえんどみたいな大御所を筆頭に、昔はそういう作詞をする人は割りとよくいたけれど、メガヒットチャートを除けば、今の主流はフリッパーズ・ギターだとかスピッツの「ロビンソン」なんかの頃から目立ってきた油絵みたいに修辞を塗ったキャンバスにに更に修辞を何重も塗り重ねるような「極端に比喩の重量に偏向気味」で「雰囲気を読み取ることをリスナーに強要する」作詞が多い。青春パンクはといえば、「歌詞じゃなく単なる説明文」にまで没落した惨状だ。分かりやすい日本語で「人の感情を俳句みたいに端的で素朴に情景描写できる作詞家」、しかも「英語を不必要に乱用しない作詞家」と絞り込んで、今の若い人たちの心象風景を描けるのは、破矢ジンタはそういうのができる人だと思うが、他に探してみても僕はピチカート・ファイヴの小西康陽ぐらいしか意外と思い浮かばない。小西にしても破矢にしても等身大の“女の子歌”とかナイーヴな“男の子歌”とかを描かせれば、平素な修辞で少ない情報量にして抜群に分かりやすく本人の性に関係なく客観的に歌詞を描ける。ただ、小西さんが極端に洋楽的(というか欧州映画的)で、しかも「ピチカート・マニア」という具合にリスナーを限定する、もしくは作者がリスナーを選択するのに比べて、破矢さんは歌謡曲並みに純邦楽的で、やはりリスナーは幅広くないかもしれないが、小西さんのように映画に啓蒙された作風のように特化されてないぶんだけ、聞き手の背景だとか環境とか体験だとか育ちとか地理なんかで聞き手を限定しないと思う(地理という部分では「渋谷系」は随分とリスナーを意図的に振り分けるので、そういう点は鼻持ちならない)。

破矢さんの場合、小西さんが描くある程度成熟した年齢を対象にするのと比べると、ぐっと幼い若年層を描くパターンが多い。ただ、成熟度に関して考えるなら、人のライフサイクルはある一定の年齢からスパッと枝分かれして個々の生き方が多様化されるものだから、なかなか多様な人生に共有され得る体験とかシーンを描けない。人は誰しも同じ分だけ皆が成熟するわけでもなく、そもそも成熟度を測るような物差しなんて有るわけがない。ただ人によって体験の内容による数とか偏り方が無限に異なるだけだ。「恋愛」なんてのはその代表例で、誰しもフランス映画とか昼のメロドラマみたいな体験を踏襲するわけじゃない、ああいうのは恋愛至上主義で人を集約してるつもりの虚構であって、「あったらいいな」ぐらいのものなのに誰かが「あって当然」みたいに気づいたら人の人生を尺度で測ってたりする、とんでもなくインチキみたいなもんだと、僕自身は思ってる。人の人生を描いて、歌ったりする場合、イメージを描いてみたところで、それは裾野が広いようで実はすっごく惨めなくらい想像力が乏しくて、「こういう感じかも・・・・」という感じで限られた人生のイメージを何とか駆使して創作しているに過ぎない。そういう一種の諦念みたいなところから創作が始まらなきゃ、ウソだと僕は思う。

ジッタリン・ジンの代表曲の一つ、「夏祭り」なんか、“打ち上げ花火”とか“金魚すくい”といったアイテムに溢れるとても日本的情緒の曲だ。でもラヴソングの一つとして見れば、思春期の早い時期に人の心に飛び込んでくる恋愛の情動、みたいな、比較的いろんな人の人生の中で幼い時に心に浮かんだんじゃないかと言える風景をくっきり描き出して、巧みにそういう恋心の揺れ方にありがちなパターンを再現している。比較的多くの人にあったんじゃないかと仮定できる事柄を実にその渦中の当事者であるかのように写実して、ありがちなノスタルジーをテーマにしたってことでは普遍的な名曲だと思う。ざっくり言ってしまえば、夏祭りに好きだった女の子と出かけていって“手をつなげなかったこと”や“好きだってことが言えなかった”ってことが意味があるわけで、なぜかって言えば「手を繋げた人」も「繋げなかった人」の両方の体験をを受け止められるからだ。それと、手を繋いだかどうか、好きって言えて両思いになれたかどうかは重要じゃなくて、それ以前に、手を繋ぐことや好きって告白することが、とても勇気という言葉以上の重さがのしかかる、そんな、恋愛という激しい情動にとてつもなく無力だった一時期をあれはもう「遠い夢の中」と回顧する思いが、その後の人生の恋愛の中で個々の人がどのような結果や道のりを歩んだとしても、原点に帰れば、比較的多くの皆がそこから全部始まってたんじゃないかっていうところにこの歌のモチーフがあるからだ。それが普遍的なラヴソングとしての条件をある一定の水準で満たしてるんだと思う。「アニー」って曲なんかにもそれは言えるわけで、あの曲なんかは、「人を好きになる」ってことの人生の中で一番最初の姿を馬鹿馬鹿しいくらい単純にデフォルメしてるわけで、「人と愛し合う」ということ以前に「人に惹かれる」っていう、人と気持ちを共有する以前のいわゆる「片思い」の輪郭を無駄な贅肉を取ってスパッと歌いきるところに意味がある。ジッタリン・ジンのほとんどの楽曲が、かなり若年層のシンプルな男の子・女の子の心象風景をラヴソングにしているのは、彼らが意図せずともそういうテーマだからこそこれまで脈々と長く愛されて本人たちも活動し続けてこれた理由になってるんじゃないか。しかもできるだけ軽快に分かりやすく、それでできるだけ等身大にそういう男の子・女の子、ほんの子供だったからこそ一際甘く、何事も人生動かすみたいに切実だった、そういうことをしっかり捉えてるのは大事なことで、そういうことが比較的普遍的に人の人生を歌えてて、そういう普遍性をもったパンクをロックステディと呼ぶのだと思う。


暑い夏がやってきて、今年もほとんどこの季節の風物詩の定番みたいに「夏祭り」がFMラジオとかから流れてくる。

メジャーシーンで人気がまだ絶頂にあったにも関わらずインディーに戻っていったジッタリン・ジン。彼らを大学の学祭で初めて見てから数年後、深夜のTVで流れるPVCMで突如彼らに再会した。春川さんはパツキンにしてアコーディオンを弾いていた。「自転車」って曲だったかな、メジャーシーンでいた頃とあまり変わらない、やっぱりノスタルジックで軽快なスカパンクをやってるのを見て、彼らがずっとそれをやり続けていることがとても嬉しかったのを覚えている。

その「自転車」の頃からもっと時間が経って、何年も夏が過ぎて、僕ももう30を過ぎた。

この間、同い年の女友達と喫茶店でカキ氷を食べてた。なんだか、相手は既婚者で僕は独身なんだけど、そんなの関係なく、30過ぎてんのに、喫茶店で女の子とカキ氷を食べてほのぼのとささやかに楽しく時間を過ごしてることが、なんかそういう自分とか自分と相手との二人が可笑しく思えて、なんだかジッタリン・ジンが聴きたくなったわけだ。

久々に聴いてみると、思いに反して案外しんみり切なくなった。・・・・・・・30過ぎてるんだけどな。

このアルバムは彼らのベスト。代表曲のほとんどが入ってて、懐かしいし、ノスタルジックに聴くのもいいし、あんまり昔と変わらない気持ちで聴けるかもしれない。

インディーに帰ってからの曲もクオリティが高い。「マリアン」とか「泣き顔のマリー」みたいなほとんどハードコアみたいな曲もやってて、そういう試みに挑戦する姿も嬉しい。

「クローバー」なんか個人的に泣けるな。


いつまでもやっていて欲しいバンド。






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8-9-10! Jitterin' Jinn Best8-9-10! Jitterin' Jinn Best
(1999/10/01)
JITTERIN’JINN

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Beck / Mellow Gold


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Beck /   ”Mellow Gold” / 1994

 






10年以上前のこと。大学生だった僕は自主映画を作っていた。
8ミリフィルム、モノクロで、ファーストシーンにビラがいっぱい散らばったワンルームで主人公の男がTV画面の「砂嵐」を眺めてる。そういう、いかにも「難解ホークスやってみました」みたいな映画だった。

そのファーストシーンのビラだが、そのビラには何が描かれているのがいいかってことをいろいろ考えていたとき、同じサークルだった友人が僕の隣でギター弾いたりゴロゴロしたりしながら、なんか粗雑だけれどポップな雰囲気の人物のイラストと英語の文章をA4の紙に書き散らしていた。

「これにしよう」。
僕はそのイラストと英文が書き散らされたA4用紙をもらって、そいつを大量に100枚ぐらいコピーした。それをロケ現場(というほどのものでは勿論ないが)のマンションの一室にばら撒いて、映画のファーストシーンを撮影した。

実はそのイラストに描かれた人物がBeckで、添えられた文章がLoser のサビの部分の、あの有名なフレーズ、“Im a loser baby, so why dont you kill me?”だったということを、僕はおよそ10年過ぎてようやく最近分かった・・・・・・。

そういえば、その友人が「ベック」という名前を言ってたような曖昧な記憶を思い出した。そんで、それに対して僕が「え?ジェフ・ベック?」とか、何度か訊いてたような気がする。



僕が初めて聞いたBeckのアルバムは、確か“Sea Change”で、“Guero”が出る直前だった。「なんか暗い・・・・」と思いながら、次にその前作“Midnite Vultures”を聴いて、打って変わってファンキーでノリノリに驚いた。それから“Mutations”、そして“Odelay”を買って、これが一番かっこいいと思って、一番最後に1st の“Mellow Gold”に辿りついて、最初の曲の歌詞を見て「ああ、これだったんかいな!」ということになったわけだ。

Beckはよく、「折衷主義ロック」とか言われたり、「ミクスチャーロック」のカテゴリで紹介されたり(厳密には誤りだと思うんだが)する。確かに“Odelay”なんか「折衷」的方法論の教科書みたいな感じがする。それと TSUTAYA なんかではBeckのCDの紹介コピー文に、日本の Cornelius と同じみたいに扱われてたりする。それはもちろんBeckのアルバムの音楽的変遷がCorneliusみたく、アルバムごとにコロコロ変わって多彩でユニークである(悪く言えば節操がない)類似を指摘しているわけだが、僕はそういうBeckの、一つのカテゴリに収まりきらない音楽的スタンスに好感を感じる。一つの曲の中にフォークだとかブルースだとかヒップホップだとかテクノだとかを数珠繋ぎみたいにコラージュ、というかサンプリングするみたいな「折衷主義」ロックの方法論がなによりもBeckの魅力だと思う。

Beckのアルバムってのは音楽的ネタがそれぞれ結構幅が分かれている訳だから、「Beckの代表作を挙げる」みたいなことは難しいし、あまりそういうのは意味がないと思う。個々のアルバムについて一つ一つ主観的思い入れをたらたら書いていくようなのが妥当という気がする。そういうことをしてもいいんだけど、あえてここで“Mellow Gold”について僕が書きたいのは、例の「自主映画時代」にまつわる思い入れもあるのだが、Beckの中に同居しながら互いに相反するミュージシャンとしての輪郭が、上手くバランスをとって示されていると思うからだ。

例えば、“Odelay”なんかに顕著に現れているのは、限りなくポップミュージックに対して批評的な音楽性を投げかける革新的なクリエイターとしてのBeckの輪郭がある。こういうアルバムの中で見えるBeckのスタンスは、「リボルバー」を出した頃のビートルズの光景であったり、一連のアンビエント作品群を飛ばしまくったブライアン・イーノの姿であったりして、「先鋭」とか「実験」という言葉が当てはまる音楽至上主義的表現者のスタンスなのである。

だがそうかと思えば、実験的精神の塊みたいな“Odelay”の次作にひたすら趣味的作風を「盆栽みたいに並べてみました」みたいな“Mutations”、「踊れる音楽」を多彩に独自的解釈する非常にテンションの高い“Midnite Vultures”の後に、単調なトーンで「私小説」の調べを紡ぐかのような“Sea Change”を出したり、Beckには必ず一つの創作に対して反動した作風をいきなりぶつけてくるような面白い特徴がある。

Odelay”や“Midnite Vultures”に代表される批評的音楽性、細部に渡って新しい発想を施す音作りの革新的クリエイターな姿とは、まるで対極に位置するような作品として“Mutations”や“Sea Change”がある。これらのアルバムの中では既存の幅広い音楽ジャンルを加工されない形でそのままの素材として借り出して、例えばごくプライベートな事柄を歌ったり、また非常に内面的な領域をテーマに据えてオーソドックスな方法で表現を「物語る」ことを追求していたりする。いわば、キャロル・キングが典型であるようなシンガーソングライターの系統を踏襲する音楽の文学的な素地へストイックに依拠する姿勢、シンプルなサウンドで歌詞やボーカルの力を前面に打ち出し、歌われる対象に対して多分に内的に表現しようとする作家主義的なミュージシャン、という、Beckには「先鋭」とか「実験」とは対局するもう一つの個性がある。

彼自身、自らのそういう互いに相反するミュージシャンの顔の要素が自らの中に同居していることをどのように考えていたのか。“Sea Change”を作った後、Beckは「もうこれを作ったら、後はなんでもいい」みたいなニュアンスの発言をしていたような記述を何かで読んだが、確かにそれ以降の“Guero”や“The Information”といった近作ではリラックスして臨んだ印象を受ける。本来の「折衷主義的」方法を前衛を背負うような性急な姿勢ではなく、やりたいようにやってる観がある。


だが、Beckの革新的クリエイターとしての側面と、フォークロックに本流を求めるような作家主義的な側面は、もともとすでに提示され、それらが最も理想的に昇華されたのが、1st の“Mellow Gold”であり、この作品を引っさげてやってきたところに「グランジの最終兵器」と呼ばれたような、Beckの独自性がロックシーンに叩きつけた当時の巨大な戦慄の空気が伺えるように思うのだ。

冒頭を飾るLoser の衝撃は、発表からおよそ10年を過ぎた僕の属する世界をも重い切実感を持って表象する、時代の経過に耐えうる普遍的(であることが悲劇的)なものだ。僕はこの曲でラップ音楽を受容することができたのだが、これを聴くと、例えばギャングスタ・ラップで歌われるような過激さがまるで保守的なルールの上できちんと整列する縛りをかけられたあらかじめ拘束された音楽にすら感じてしまう。またI'm a loser baby so why don't you kill me ?のフレーズの前では、かつてのNo,futureという最も有効的だった否定的言辞すらも、なにか未だやたら元気な余裕を持って健康に「主張」しているように聞こえてしまったりする。だが、Loser ではもはや「主張」どころか「対峙」すらしていない。全ての能動性を放棄して、自己を唾棄して、どこまでも脱伍してゆく感じがする。その「落ち方」がいい。

サウンドの部分の独自性だけでなく、Beckのボーカリストとしての個性がこのアルバム全体を多彩に彩っている。ノイジーな曲で現れる「アヒルの首を絞めたような」絶叫や発生も彼の音楽の不規則性を表現して鮮烈だが、もともとフォークを出自とした彼の「聴かせる」歌モノもいい。Pay No Mind なんかは僕はボブ・ディランを聴くのと似たような感慨を受ける。オルタナティヴなアルバムでありながら、こういった曲ではある意味正統的で、脈々と繋がるフォーク・ロックの道筋をオーソドックスに辿るような再帰性を感じるのだ。


Beckが1stで提示した彼の中の対極的な個性は、この後、2つの音楽的ピークとして次作の“Odelay”や、また“Sea Change”において、それぞれ違った彼の側面として迎えられることになる。だが“Mellow Gold”は1stであるがゆえの音楽的な飢餓感というか、初期衝動(脱力的なBeckにとっては独特のそれ)を持ち得てるがゆえに、やはりこのアルバムが一番好きな理由となる。




そういえば、最新作の“Modern Guilt”も出たんだっけ。


サークルの友人が描いたBeckのイラストは、まだ僕の部屋のどこか奥に残ってるかな・・・・・・。






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Mellow GoldMellow Gold
(1994/03/01)
Beck

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Modern GuiltModern Guilt
(2008/07/08)
Beck

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フィッシュマンズ / 空中キャンプ


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Fishmans /   ”Kuchu Camp” / 1996






フィッシュマンズのメジャー移籍第一弾にして提出された記念碑的名作。
いまでもこのアルバムをしてフィッシュマンズのベストに挙げる人も多いと思う。

当時の音楽シーンがどんな状況だったか分からないが、個人的にはいわゆる「渋谷系」ブランド、それに似た類の音がどこからも四方を塞いでいたような頃だった気がする。
そんなときにFM802で奇跡的な偶然のように出会ったこのアルバムのシングル「Baby Blue」がやたら気だるくて一際へヴィーなマイナスベクトルを放射して、ラジオから浮遊するように聞こえてきた。
「渋谷系」と機軸を共にするようなどこか懐古趣味的な音のイメージがしたけれど、モノホンの「渋谷系」が明るい60年代なら、こちらは薄暗い70年代という感じで。

「なんだか死にたくなるような曲だな」と思ったことはよく覚えている。
僕と同じように『空中キャンプ』から死の匂い、というか、死にまつわる倦怠を感じた人は他にもたくさんいたんじゃないかな。

1999年にボーカルの佐藤伸治が急逝した直後、僕はまったく関係ないことだが極度のうつ状態になって精神科に入院した。
入院するほんの数日前、CDショップで「MAGIC LOVE」のPVをボンヤリ眺めていたこともよく覚えている。

僕にとってはフィッシュマンズはいつも気だるいマイナスのベクトルに向かって聞こえてきた音楽だった。
でもそれがまた随分と心地のいい倦怠感だったわけだ。

最近になってからフィッシュマンズのポリドール移籍前の作品を掘り起こして聞いてみたけれど、『空中キャンプ』とはまるで断絶したかのような作風であったことには驚かされた。

彼らはレゲエやダブを日本の都市の日常に置き換えたロックステディを忠実に追い求めていたバンドとして、デビュー以来長く続けてきた。

それはあくまで日本のルードボーイの姿を描こうとしていたような、ロックステディの国産品を作ろうとするような、ある種の気概、もしくは気負いが反映されていた音楽であったように思う。

そういう今までの気概がこの『空中キャンプ』ではまったく突如に四散して、レゲエだとかダブといった音楽的背景が後退して見えなくなった。ロックステディのようなテーマ性も必要としなくなって、もっと切実で重いなにかしらの詩的描写を潜ませた世界観に変わった。

瑞々しい水彩画が、キャンバスに重くのしかかる油絵に変わった、というような喩えがいいだろうか。

『空中キャンプ』で、フィッシュマンズは青春期のルードボーイを描写するような躍動的なバンドから、もっと普遍的で何処にも誰にも起こり得る表象をなぞるような表現世界を確立させたのではないかと思う。


どこかのフィッシュマンズのファンサイトで書かれていたことだが、「Baby Blue」に出てくる「きみ」というのは、本当は現実にいる誰かの「きみ」ではなく、自分の内側にしかいない「きみ」のことなんじゃないか、というようなことが書かれていて深く共感したことがあった。

このアルバムで描かれているものは本来レゲエとかロックステディの中で描かれるような直接的な現実の記載ではない。
それよりももっと深く、沈降した、虚実の分からない、行方不明のいつかの未明のクルージングというような感じだという気がする。

自分たちが出発した音楽的背景を抜け出して、とてつもなくカテゴライズを拒んだ表現世界を持ち得たとき、甘美で、倦怠で、ほのかに死を誘引させるようなところで彼らの音楽は漂流していた。


佐藤伸治の急逝はまるで作り事のように彼らの音楽の終わり方にふさわしすぎた。


フィッシュマンズが続いていれば、どんな感じの音楽だったのだろうといつも思う。




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空中キャンプ空中キャンプ
(1996/02/01)
フィッシュマンズ

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Yellow Magic Orchestra / Public Pressure


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Yellow Magic Orchestra /   ”Public pressure” / 1980

 





YMOと言えば、テクノ。

だけど、1980年代後半に思春期を迎えた僕には「テクノ」といえば、「ピコピコ」音しか浮かばなかったし、そもそもその頃僕の周囲に流布していたYMOについてのイメージと言えば、「君に胸キュン」だとか「以心電信」しかなかった。

僕は邦楽よりも洋楽の方に先に開眼していて、初期パンクだとか第二次ブリティッシュ・インベンションをよく聞いていた。

そんな僕だったから、YMOに開眼させられたきっかけは、「テクノポリス」や「ライディーン」のようなマスにウケたアルバムでもなく、『BGM』や『テクノデリック』のようなYMO信者に崇め立てられ続けているコアな名作でもなく、この『パブリック・プレッシャー』だった。

YMO初の世界ツアーであるトランスアトランティック・ツアー、そのNYのハラーでのLIVEビデオを見たとき、僕が感じたYMOは「テクノ」ではなく、「パンク・ニューウェイブ」の感覚だった。
「コズミック・サーフィン」の演奏は紛れもなくニューウェイブっぽいテイストがしたし、メンバーの人民服にマジシャンの覆面という装束も80年代洋楽のオリエンタル志向に沿った感覚に忠実であったように思う。

僕にとってYMOは「テクノ」ではなくて「パンク・ニューウェイブ」という捉え方が初めにあった。
だからこの『パブリック・プレッシャー』の次にハマったのは『増殖』だったし、『BGM』とか『テクノデリック』を聞けるようになるには時間がかかった。
広義で捉えれば『BGM』なんかは典型的なニューウェイブ音楽であるかもしれない。
だけど洋楽のニューウェイブ音楽の中ではああいう重層的な音を出すのはほとんどなかったし、『テクノデリック』みたいなインダストリアルなパーカッションをサンプリングしたり演奏するミュージシャンは主流じゃなかった。
「テクノ」というのはまだ存在してなくて、「テクノ・ポップ」という定義はあっても、そのほとんどは「エレクトロ・ポップ」だったのかもしれない。

この『パブリック・プレッシャー』も「エレクトロ・ポップ」の亜種のようなアルバムであって、だからこそ僕の耳にも自然に入り込めたのかもしれない、という気がする。

この『パブリック・プレッシャー』は周知の通り、正確には実況録音的な意味でのライヴアルバムではない。
サポート・メンバーのギタリスト、渡辺香津美の演奏がレコード会社の契約上の問題でそっくりカットされてしまって、そのかわりにシンセのオーヴァーダビングが施されているという代物であり、言うならば「バッタもの」のライヴアルバムなのだ。

ハラー公演の「コズミック・サーフィン」のような渡辺の素晴らしいギターワークはここでは聞けない。
「ジ・エンド・オヴ・エイジア」はオーヴァーダビングの箇所を繰り返し聞いているとなんだか飽きてくる感じもする。
でも、例えば「レディオ・ジャンク」のような曲はギターチャンネルを封じたおかげで逆にしなやかなポップ・ソングに仕上がったかもしれない。シーナ&ロケッツのスタジオ録音のようなコテコテのロック色が抑制されて、高橋幸宏の持ち味であるポップテイストが生かされているように思う。

トランスアトランティック・ツアーの演奏は、渡辺香津美の演奏パートをそのまま流した『フェイカー・ホリック』という完全版というべきアルバムが後から出ている。
この『パブリック・プレッシャー』と聞き比べてみるのも面白いかもしれない。

この『パブリック・プレッシャー』のチープでパンク的な初期衝動がほとばしる演奏を聴かなかったら、「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のスタジオ録音のバージョンの良さもなかなか理解できなかったかもしれない。

そういう初期衝動がYMOのバイオグラフィーの中で存在するのはこの時点だけである。そういう意味ではYMOとしては珍しく、且つ重要なシーンがここには残されているかもしれない。


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パブリック・プレッシャーパブリック・プレッシャー
(2003/01/22)
YMO

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(1994/08/31)
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小島麻由美 / My Name is Blue


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Mayumi Kojima /   ”My Name is Blue” / 2001






このアルバムで初めて小島麻由美を聴いたとき、1曲目の「甘い恋」をPVで見ながらHMVで視聴したのだが、少々ありがちな型にはまったレトロ趣味志向だなあと思った。
だが、しばらくしてから彼女の1st『セシルのブルース』を聴いたとき、なんか好きなようにやってるなあという感じで好感を持った。『My name is blue』を聴いたときのような、型にはまりすぎな方向じゃなくて、少ない音数で気軽にやりたいことをやってる雰囲気が、気取りがなくて好きだった。
最初に僕にHMVで『My name is blue』の視聴に誘った年下の女の子が「彼女は音楽を表現してるんじゃなくて、ただ好きなだけで音楽やってる人なんですよ」と形容した意味がよく分かった。
その翌年だったか、シングルの『恋はサイケデリック』をリアルタイムでFMで聴いたとき、「なんかこれはすごく売れるんじゃないか」と意外な器用さを感じて驚いた。

その後しばらく小島麻由美を聞くことはなかったんだけど、その間に椎名林檎が東京事変とかをやってるのを見て「そう言えば、小島麻由美は椎名林檎のパクリだったのかもな」なんてことを思いながら過ごしていたわけだが、ある偶然のきっかけで小島の『二十歳の恋』と『さようなら、セシル』をいっぺんに聴く機会があって、これがかなり自分的に衝撃が沸騰して「マイ・小島麻由美再考ブーム」がやってきた。

1st『セシルのブルース』と4作目『My name is blue』との間にこんなにも音楽的冒険を渡り歩いていたことが、「ただ好きなだけで音楽やってる人」にしては随分と面白いことを実験してきたんだなと、なんとなくものすごく小島さんに申し訳ないような気持ちになった。
それともう一つびっくりしたのが、先に挙げた音楽のレトロ趣味志向、たとえば「大正ロマン」だとか「昭和歌謡」というかそういう類の音楽性を、実は小島麻由美は椎名林檎たちとかよりももっと早い時期から先駆的にやっていて、ある意味パイオニア的存在だということを知って、またまた小島さんに激しく申し訳ないような気持ちになった。つまり、小島麻由美が椎名林檎をパクる、ということは常識的にありえないことな訳だ。

だが、僕が小島さんに対して最も申し訳なかったことは、実を言うと、HMVで「甘い恋」を視聴して『My name is blue』を買ってはみたものの、それ以後約5年間に渡って、僕は『My name is blue』を、最後の曲まで一度も聴いたことがなかったということだった。

僕は5年を経て初めて『My name is blue』を最後の「わいわいわい」まで聴いた。
「ひまわり」と「あの娘はあぶないよ」のところで、不覚にも、泣いた。


小島麻由美の音楽性のエッセンスは先述したとおり、いわゆるレトロ趣味志向に彩られている部分が多々ある。
だが彼女の公式サイトで、「高校時代、ふと耳にしたローズマリー・クルーニーの音楽で突然アメリカン50'sの虜に」なったと述べてあるとおり、レトロ志向といっても、それこそ「ありがちな」大正ロマン云々みたいな「レトロの主流」みたいなところからは距離を慎重に置いているスタンスを感じる。
レトロ志向のミュージシャンの人たちは、言ってみれば80年代初頭に戸川純だとか上野耕路の二番煎じにみたいなもんだとまとめちゃうのは暴論だが、そういう先達との差別化に腐心する亜流の定めと格闘してるような感じが個人的にはある。

そういう亜流の腐心と比べてみれば、小島麻由美は非常に肩の力を抜いて天然にやってるように見えるんだが、たぶん彼女の場合、音楽的感性のネタ創出の次元が、一般的にJ-POPやってますという人たちのそれと比べてある意味広い、とも言える。ローズマリー・クルーニーが好きという邦楽アーティストはメジャーで聞いたこともないが、50'sオールディーズと言ってもなんかイタリア寄りで主流じゃないし、そもそも愛読書が村上春樹で、好きな映画はゴダールというのは有り得ても、そういう彼女のデビューシングルがビバップというのが一筋縄ではいかないところ。マリア・カラスやエラ・フィッツジェラルド、サティが好きで、だけどドアーズ、キンクス、ベルベットも聴きますみたいなところは、守備範囲が広いと言えば広いが、エキセントリックな女の子というカテゴライズからすれば単にベタ。

そういう引き出しの多さ、守備範囲の広さが、強みでもあり節操のなさでもあり、だがそれゆえに彼女がインディペンデンスな歌姫たらしめているという理屈も通じる。
だけどメジャーシーンで成功した椎名林檎ですらある意味キワモノ的に見られているとしても、彼女も含めてメガヒットする人たちやプロデューサーたちが正攻法的に音楽を聴いて真面目にJ-POPの系統みたいなのを踏んでるのは、ベタで節操のない小島麻由美より正統ではあるが、その正統というのは結構いろいろパターンあるようで実は枝葉の少ない世界だったりするかもと思ったりする。

逆の意味で椎名林檎やEGO-WRAPPIN'、ジムノペディが小島麻由美と比べれば随分まともでウケやすいレトロ趣味志向の人たちだとすれば、倉橋ヨエコだとか黒色すみれ、ちょっと毛色が違うが犬神サーカス団なんかはレトロ志向の前衛というか極北みたいなところでカルト的にやっている人たちもいる(といっても、やっぱり80年代のゲルニカの焼き直しに感じるんだが・・・)。
こういうのを聴いていても、小島麻由美はニュートラルな意味で自由で好きなようにやってるんだなって思うわけだ(良いか悪いかとかじゃなくて好き嫌いの判断で)。
そういうカルトな人たちもたぶん自分が好きなことを好きなようにやってるんだろうけど、そういう志向の先っちょを徹底してやり続けていると、本来自分が好きなことを「好きなんだ」ってことが自分にとって強迫的に(ファンからは望まれるままに)やってるヤナ感じに変わって行っちゃって、それが緊縛プレイになっちゃってしまう、なんてこともある。


小島麻由美が程よくインディーでありながら節操なくニュートラルというのは、彼女の趣味がオペラやブルースやオールディーズやいろいろなところを引き出しにしてるってことと同時に、そういうセンスの中の美味しい部分、気持ちいいと感じる部分をとても正直でベタに取り出してくるってことで、彼女が感じるそういう気持ちよさってのは意外とオーソドックスでPOPである訳だ。彼女はエキセントリックでありながらミーハーでもあるわけで、いろいろ好きなものを雑多にいっぱい持ってる人って、当たり前のことだけど、それぞれの美味しいところを知っているからこそトータルに見ればウケる物の目利きもいいってことだ。

小島麻由美の目利きの良さってのは、彼女の楽曲の骨組みそのものが聴き心地のいい鼻歌みたいにキャッチーであるところに表れている。処女作とされてる『真夏の海』なんかそのいい例で、確かにレトロな感じなんだけど、メロディライン自体が単純に聴きやすい。

そして彼女のバック演奏を支える塚本功、清水一登、ASA-CHANGといった人たちがまたジャンルが多彩で達者な人たちなものだから、それが小島麻由美の楽曲のシンプルな良さに加えて玄人的に唸らされるようにディープな渋みを与える。ニコニコ動画でFM802で過去に放送されたスタジオセッションを聞いたけれど、『恋はサイケデリック』が小野リサみたいなボサ風味になったり、「わいわいわい」がむちゃむちゃ分かりやすいカントリータッチになったりしてて、改めて意外な器用さに驚かされた。


小島麻由美の現在のところのベストアルバムを客観的に選ぶのはすごく難しい。彼女のスタンダードナンバーを3つ挙げろと言われたらそれはもっとすごく難しい。曲の次元で言うならば彼女の名曲は『My name is blue』以降の「セシル」時代から大きく飛躍して洗練されたアルバムから選ぶのが普通かもしれないけど、「真夏の海」や「恋の極楽特急」のただただお気軽に愉快だったり切なかったりしてた「セシル」の曲たちも捨てがたい。アルバムの次元でベストを選ぶなら最も完成度が高いのはいろんな人が言うように『愛のポルターガイスト』だろうけどな。

でも敢えてこの項で『My name is blue』を取り上げたのは個人的な経緯もあるし、なにより前半の鬱な倦怠感の空気から、明るい陽だまりの中でゆっくり多幸感に包まれていくような、そういうアルバム全体の流れが良いと思ったからだ。

特に「黒猫」のあたりでブルーに落ち込みながら、「星に願いを」のところで少し光を感じて、「ひまわり」のところで確かな温かみに代わって、「あの娘はあぶないよ」で跳躍して、「わいわいわい」での思わぬところで大団円、という流れがいい。ライヴでよく最後の方で演奏される「ひまわり」はやっぱり個人的には一番好きな曲かもしれない。


椎名林檎と小島麻由美がプライベートで仲がいい、みたいな話を聞いたことがあるが本当だろうか。そうであっても別段不思議でもなんでもないことなんだが。
椎名が映画『さくらん』で作った歌(名前は忘れた)を聴いていて、それは僕からすれば小島麻由美が十八番みたいにやってた類のことのようで、椎名林檎がなんかぎこちなげに、でも今までと違うことをバーンとやってるところを見ると、もしかしたら椎名林檎はもっと早いうちにこういうことをさっさとやってしまいたかったんじゃないかって、そういう憶測を感じたりした。

ま、憶測だけど。




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(2001/09/05)
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自分はパンクでした。

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