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マルサの女


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マルサの女


1987年 日本映画
監督・脚本:伊丹十三
撮影:前田米造
音楽:本多俊之
出演:宮本信子,山崎努,津川雅彦 ,大地康雄 ,桜金造


マルサの女(1987) - goo 映画






伊丹十三の映画3作目にして、おそらく多くの人がこれが伊丹映画の代表作として挙げるかもしれない名作。僕が見た伊丹作品も『お葬式』でもなく、『タンポポ』でもなく、これが初見だった。

80年代の初期のフランスで映画の変革期が訪れ、新しい監督世代として、ジャン・ジャック・ベネックス(『ディーバ』)だとかレオス・カラックス(『ボーイ・ミーツ・ガール』)やリュック・ベッソン(『最後の戦い』)という顔ぶれの新しい感覚を持った映画作家たちが現れた。彼らの傾向や共通軸をロック・ミュージックの分野で「渋谷陽一」的に喩えてみるならば、プログレだとかディスコ全盛の商業主義的傾向のポップミュージックを打破・唾棄するアンチカウンターとしてパンク・ニューウェーヴ世代が勃興した流れと同じようなものだと言える。

そういうフランス映画のパンク・ニューウェイヴ的作家世代と通じるような斬新さで、新しい感覚の表現を創出し、同時にマスとしての大衆にペイできる胃の腑の強い作品を提示したのが伊丹十三の真骨頂であり、その最も影響力を行使し得たピークが、この『マルサの女』だったのかもしれない。


刑事やヤクザやアウトローが出てくるわけでもなく、「税金の取立て」という一見地味な筋書きがアクション映画に似た高揚感を生み出す。国税庁査察官という肩書きの人間たちに焦点を当てた映画なんて誰も想像してなかったし、それが立派にカタルシスを観客に与えるものだと信じて、実行して成功できるような、とんでもない先見性とセンスと実力が伊丹監督にはあった。

伊丹十三という作家はある意味日本人離れした理知を持った人ではあったかもしれないが、決して前衛的な方法を駆使する孤高の芸術家ではなかった。どのようにすれば売れるのかを、つまり「どうやって観客と同じ視線に横たわるか」を忘れずにいられる、商業ベースの人だった。

特別なアングルを使うわけでもない。だけど、この映画の冒頭のカットが乳房を貪り吸う老人の姿から始まるとき、いったい何の映画が始まるのかと一瞬撹乱させられる。山崎努が演じるこの映画の悪玉権藤が秘書に電話を放り投げて浮かれるシーンの仕草なんか、僕の映画好きの大学の先輩なんかは「この映画のシーンで一番強烈だった」と事あるごとに述懐する。それにマルサが査察に踏み込むときに所持したショルダーバックみたいに大きな携帯電話。あれに時代(古いと言う意味での)を感じる、という向きの方もおられるようだが、僕はむしろああいうものは伊丹映画でしか使用されないような小道具だからこそ、いつ見ても新鮮さを感じる。そしてTV番組のBGMで使い回されて何度聞いてもすぐにこの映画をまた観たくなるようなサントラのテーマ曲。もはや伊丹映画の代名詞みたいに存在を誇示するような語り草となった本多俊之の五拍子リズムの印象的なテーマ曲だが、過去の邦画には全く有り得なかったこの映画のスピーディーなテンポの完成度と相俟って、ある種日本映画で最も普遍的なサウンドトラックの一つのようにすら感じる。

脱税アクション(?)映画という奇抜な主題や、悪役・権藤の描き方、演出や撮影・美術の細やかな仕掛け一つ一つが一見奇をてらったかのようなデフォルメのようであったり、過剰なまでに監督独自の賛否両論的に顕示されるセンスが「これでもか」と言わんばかりに出てくるのが伊丹作品の特徴。しかしドラマ進行の語り口は生真面目すぎるくらいオーソドックス。そして描かれる人物一人ひとりの個性や舞台の役目を丁寧に描き分け、誰一人無駄な登場人物がない(伊丹映画でのキャストのエンドロールではほぼ全てのキャストに役名がきちんと付いてるのに注目して欲しい)。そして物語の主要な人物、主人公とそれと対峙する「悪役」の人間性を深く掘り下げて、随所で印象的に見せていて、決して平板ではない。冒頭の乳吸いシーンだとか脱税者の「特殊関係人」の女が素っ裸になって査察官に毒づくシーンみたいな、ほとんどマンガでしかやらないようなグロテスクな平面性とは対極的に、脱税者・権藤の息子思いな一面や、主人公・板倉亮子と権藤の恋愛にも似た関係の描写などが、アンバランスな矛盾に揺れる様にありながら、しっかりと人間描写の正統的方法として真摯に叙述されている。

「変なキャラだよな」みたいな強烈さがありながら、「こんな奴、いるよなあ・・・・・・」みたいな実感がわざとらしくないわけだ。

そういう人間の「写し方」が、「生き様」という言葉にありがちな大仰さに集約されず、コミック感覚にエキセントリックで普通のドラマの数倍クールに洗練されてるのに、人間の「描き方」に気づかれないようなぐらいの気遣い方で泥臭かったりする。

四季に割り振る章立てで進行して、税務署職員時代の板倉と権藤の別れ方に使った小道具を、査察のクライマックスを越えた後、夕刻のラストシーンにこっそり「仕掛け」として用いたりする(それがドラマの結末の鍵になる)。前者のシーンで息子に金を残す方法を思案して聞かせる権藤との会話を遮断して立ち去る亮子に「待ってくれ!」と言いつつその場に権藤は残される。そして全てを終えるラストシーンで、遊んでいる幼児の姿を眺めながら権藤の呟く台詞が淡々と染み入る。「このごろああいうのを見ると自分の手のひらから幸福がすり抜けていくように感じるんだ」。

自分の元で働かないか、と亮子にプロポーズ(と言うのがふさわしい気がする)する権藤に、黙って亮子はゆっくり横に首を横に振る。

そして権藤が最後に亮子に託すもの・・・・・・そこまでの、そういう、人間に対する、なにか、監督の、生真面目で執拗なほどまでの「心優しさ」とも言える、創作の気遣い方。


そういう部分に伊丹十三の本質があって、野暮に言えば「貫かれたヒューマニズム」と言うようなものだという気がする。そしてこの人は、そういうものは野暮なんだから、色鮮やかにキラキラする装飾の中のほんの隅っこの引き出しの中に、誰にも知られないようにこっそり忍ばせて置いておく、そういう粋な心優しさを控え目に懐に抱えた映画作家だったんだと思ったりする。

そんな伊丹映画のエッセンスが最もストレートな形で抽出されているのが、この『マルサの女』なんじゃないだろうか。



以後、「○○の女」タイトルの形はいろんなテーマとキャラでシリーズ化された。それぞれの作品の主題は同時代的とも先見的とも見える感じで、いずれもエンターテイメントなドラマの機軸をブレずに時代を切り取り映し出した。それはバブル崩壊前の地価狂乱状況の喧騒であったり(『マルサの女2』)、「任侠」としてではなく「反社会的な暴力の象徴」としてヤクザを映画で描き、それとケンカして勝つ方法まで教えてくれる作品だったり(『ミンボーの女』)、社会問題として宗教団体の犯罪やスーパーの商品偽装を先取りして予見させたようなもの(『マルタイの女』、『スーパーの女』)だったりする。

そういう作品の危ういテーマ性もあって、実際に伊丹十三は凶行に襲われたりスクリーンを引き裂かれる事件に遭遇しているわけだが、伊丹映画にまつわる独特のブラックユーモアとかパロディセンスとか、なによりも絶大な大衆性を備えていたことが影響していたせいか、彼の作品性のシリアスな一面と実際に作品がもたらしたファナティックな社会的影響との関係について切実に論じられた場面は、今から思い起こしてみればだが、意外に少なかったような気がする。

伊丹十三のほぼ晩年の頃だっただろうか、彼のデビュー作『お葬式』と同じくATG映画でのデビュー作出身の、現在に到るまでただの2作しか映画を作っていない某映画監督のトークショーを観に行ったことがあった。そのときになんとなく印象に残った話の一つに、その某監督が伊丹十三とデビッド・リンチの二人について徹底的に過小的評価を下していたことだった。その当時も思ったことだし、今でも何故と思うのだが、今現在におけるまで、その某監督に限らずとも、映画の批評場面において(特にATG系の映画を芸術映画の「正統」と評価する人々の間で)、伊丹監督作品について「正当」に評価されていないという思いが僕にはある。評価とまで言わずとも、伊丹映画がもたらした日本映画の映画史的位置づけを定められず、他の物故映画作家やその作品群と同じ批評的俎上に並べられないまま、いまだに「異端児」というか「在って実は無かったことのように」意識されていないように、映画を批評する玄人事の問題として、僕は批評の側の怠惰を感じるのだ。

そういう怠惰という実は瑣末な事柄と、伊丹十三の急逝について思い巡らすときに、僕は伊丹監督自身の悲劇性や、彼の残した作品が彼の自死を持って露呈させたかのような予めずっと以前から在りながら知られてこなかった切実な陰り、といったものを感じ取っている気がする。切実、というのは、或いは、やり場の無い、と言い換えてもいい。理知的に捉えているが故の悲劇性、というようなものだ。

ATG映画という芸術至上主義的空間から、一気にマスの混濁するエンターテイメントに滑り降りた伊丹映画は、絶えず奇抜な表層とマスが求める商業的立場との間を理知的な視点で激しく振幅を繰り返していたのか。そしてそういう事柄は巧妙なアイロニーなどによってカムフラージュされた伊丹映画の中には表層には現れずに、作家としては皮肉なことではあるが、伊丹監督自身の結末によってしか最終的には私たちには届き得なかった、理知的であるが故の、切実な陰りであり、やり場の無さというような悲劇性だったのではないかと僕は思う。

伊丹十三の唐突な自殺を知って、しばらくして、僕はなんとなく、同じような運命を辿った創作者として芥川龍之介を思い出していた。



『マルサの女』の夕刻のラストシーンを思い起こすたびに、権藤が亮子へのメッセージをナイフで指先を切りつけて託すあの場面を見るたびに、伊丹十三という人がどんなふうにか人間を理解していたかを、もしかしたら、どんなにか人間について諦念の中で心優しく見定めていたかも知れぬかを思う。

そして、彼が上手に隠していた、実は骨太く泥臭い感じの、純度高く蒸留されたヒューマニズムみたいなものを見つけ出せるように感じる。


最も巧みで機知に富んだ小賢しい隠し事のなかにこそ、一番、人が人に敢えて告げない、いかにも人間らしい小賢しくも身の丈そのままの姿があるのだ。

これはそういう、隠し事についての、脱税の映画。





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マルサの女マルサの女
(2005/08/24)
宮本信子

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ザ・デイ・アフター


The Day After1


The Day After2




The Day After
1983年 アメリカ映画
監督:ニコラス・メイヤー
脚本:エドワード・ヒューム
撮影:ゲイン・レシャー
出演:ジェイソン・ロバーズ,ジョン・リスゴー
ジョベス・ウィリアムス,スティーブ・グッテンバーグ

あらすじ-goo映画




もとはTV映画で、公開時に全米で視聴率は46%(シェアは62%)だったという作品。日本でも劇場公開され、TV放送されたときに視聴率30%という高視聴率だったという。

製作された時期はアメリカはレーガン政権、冷戦下の軍備拡張競争がピークに達し、米ソ対立が深刻化された時代。今から考えれば、冷戦時代の最後にして最も相互確証破壊(MAD)による核戦争が実際にその通りに起こり得る規模の軍事危機に直面した頃ではなかったか。

僕は小学校の低学年の頃だったが、この映画のポスターが貼られた街角のバス停で毎日立っていたことをよく覚えている。実際にTV放映されたとき(日曜洋画劇場だったと思うが)も、吹き替えでこの映画を両親と観たことも覚えている。

世界に原爆とか水爆という核兵器というものが存在して、アメリカとかソ連という仲の悪い国同士が睨み合っていて、原爆を載せたソ連のミサイルが日本にも向けられている・・・・・・そういう、いわゆる「核戦争」の危機や冷戦構造について初めて僕が子供心に理解したのは10歳になる以前。年の近い姉が学校の社会科の時間に先生に教えられたというその話を初めて聞いたときは、思わず泣き出した。姉は途端に困惑して、「さっきのはウソ。もうアメリカもソ連も仲直りして原爆、どっちも持ってないんやで」と、真っ赤なウソで弟を慰めようとした。

小学校の低学年の頃はヒロシマの被爆の話だとか戦争の話を随分両親に聞かされたし、そういう映画もよく観に連れて行かされた。
被爆者の惨い被爆映像を映画館で見せながら母が子供の僕にこう言った。「ウルトラマンがいてもどうにもならんことがあるんやで」。

『ザ・デイ・アフター』のポスターが貼られたバス停の後ろの壁を眺めながら、「明日、もし、核戦争が起こったら、自分は今日これから、生きていて最後のバスに乗るんやな」と真剣に空想したこともあった。

だから、この映画は僕にとって、僕が生きた冷戦時代の原風景のようなもので、結局(今のところ)起こらなかった第三次世界大戦のトラウマとしての心象だった。

戦後生まれの日本人である僕がこの映画から受けた核戦争の衝撃は、たぶん、80年代初めにこの作品をTVで見た全米一億人のそれぞれの衝撃とほとんど同じようなものだったのではなかったかと思う。

明確に反戦・反核映画でありながら、この映画からイデオロギー的要素がまったくと言っていいほど僕には感じられない。
同じような志向性を扱った作品は日本でもたくさん作られた。でも日本で作られた(特に冷戦時代)反戦映画やTVドキュメンタリーといった代物と『ザ・デイ・アフター』の間にはなにか決定的に違うものを感じる。

それをどのように言い表せば適切なのか、よく分からない。

ただ、こういう言い方が適切であるか否かは分からないが、日本の多くの作品が「戦後民主主義」という「約束事」を土台にして、予定調和的に核への抗議をテーマに引き出してくる傾向が多かったことが決定的な相違の要因の一つではないだろうか。

つまり、逆に言えば、アメリカ映画の側には日本の「戦後民主主義」のような「約束事」がなかった。約束事の代わりに、『ザ・デイ・アフター』にはモチーフとして冷戦を如実に体感する恐怖の「背景」だけがあった。

冷戦が熱戦に変わったとき、ICBMの弾道が頭上に降り注ぐとき、その日、そしてその日の後・・・・・・それを出来うる限り思考してみようとする「必然」だけがあった。
その想像力の結果として、彼らはあの架空のカンザスシティーの「翌日」を描かざるを得なかった、そういうシンプルな「必然」への経過が、当然の結果としてあの映画から傾向的要素や物語の予定調和と軌道を違えたに過ぎなかっただけではないだろうか。


『ザ・デイ・アフター』に対する批判、特に被爆国である日本からの批判は、あの映画が公開された当時からネットで視聴されるようになった現在に到るまで、一貫として存在するのは「核兵器の惨状はあの程度のものではない」という主張が最も多数を集約する反論だろう(この批判に対してはこの映画がもともとTV放映されたドラマであったという事情が考慮されるべきではあると思うが)。

確かに1945年の広島や長崎に起こったことを他の国の人間よりも私たちは知識として多くを教えられている。『はだしのゲン』の1ページに描かれた酸鼻と比べれば、あまりにも「体験したこと」と「想像したこと」の間には大きな断絶がある。

だが、『ザ・デイ・アフター』がアップされたときにニコニコ動画で誰かがコメントしたことでもあるが、なにも核戦争のリアルのディティールを描くことだけが「体験した」側の特別な表現であったとしても、それが全ての本質ではない。
核の惨劇を「想像する」側がマクロに俯瞰する「その翌日」からの全体を覆う世界の悲惨さへの記述をも、本質の一つではないか。
なによりも、いつかやってくるかもしれない「その翌日」は、我々全体の将来であるのだから。

私たちは追体験できない事柄として1945年のヒロシマ・ナガサキを共有している。

同じように今までになかったものとしての“The Day After”を体験するかもしれない世代の人間として、起こり得る将来の一つを担うかも知れぬ運命を共有しあっている。

そういう意味での「平等」な地平線上でカタストロフを考えるとき、私たちは『ザ・デイ・アフター』が描かれたあの地点は非常にシンプルな「必然」の一つとも言えるのではあるまいか。


余談ではあるが、『ザ・デイ・アフター』を検索していたらGoogleではほとんど『デイ・アフター・トゥモロー』の関連サイトが数多く出てきた。

25年前からは考えられなかったことだが、冷戦はあっけなく終結して、ドイツが統一され、ソ連は解体された。
冷戦の後はグローバリズムが現れて原理主義が覇権大国と睨み合う危機の時代へ入れ替わった。
そして、今では「その日の翌日」である「明日」を確実なカタストロフとして環境破壊の未来が語られるようになっている。

だが、この映画の結末をいま一度思い出してもらいたい。

爆心地近くのカンザスシティーで跡形もなくなった自宅跡に辿り着いた主人公の老医者は、妻の形見である腕時計を見つける。廃墟となったその場所に見知らぬ被爆者の家族が佇んでいるのを見て、老医は激しく叫ぶ、「俺の家だ、出て行け!」。被爆者家族のうちの一人の老人が主人公にオレンジを差し出すが、それを受け取らず、元の家主は焼け跡の地面にうずくまる。やがてオレンジを差し出した老人が主人公の医者に歩み寄り、二人は静かに抱擁する。

このラストシーンの光景の重みはなにひとつ意味を失うことなく、憎しみ合い、時に破壊を希望と錯誤する私たちの行き先に、指し示し続ける。



25年前の冷戦の戦慄の中で、私たちはもしも「その日」を終えたとき、もう少しなにごとかの叡智に理解を進めることができるかもしれない、ということを知った。



だが「その日」の後にはもはや「明日」は来ない。

「明日」という楽観を想定し得ないというリアルな背景は、今なお、変わってはいない。



The Day After3




The Day After4








ザ・デイ・アフターザ・デイ・アフター
(2004/08/27)
ジェイソン・ロバーズ

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女は女である


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UNE FEMME EST UNE FEMME
1961年 フランス=イタリア映画
監督:ジャン・リュック・ゴダール,ジャン・ピエールゴラン
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ,ジャン・クロード・ブリアリ,ジャン・ポール・ベルモント

あらすじ-goo映画




久しぶりに観たゴダールの映画。

20代の前半だった頃、男と女の関係が、僕にとって、生きるか死ぬか、みたいだった頃、ゴダールの男女と政治と闘争についての映画は僕には悲惨に感じられた。

ゴダールは現実を描くときに、現実から遠いところから中心をクローズアップさせる。
現実から程遠いのに、それが現実を極度に映し出しているかのように見える。

人はそれを「寓話」と呼ぶ。

そしてこの映画は男と女についての、ゴダール流の最も幸せな、ささやかな魔法に満ちた寓話。

初期のこの作品には、まだ『男と女のいる舗道』の悲惨さや、『気狂いピエロ』の攻撃性もない。

子供を欲しがる女とその彼氏、という単純なストーリーのアウトラインに沿った、幸せなラディカルだけが魔法みたく弾けている。

「子供が欲しい」とひたすら哀願するアンナ・カリーナが一途で可愛い。 

ラストシーンが最も幸せに満ちたゴダールの映画。



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女は女である HDリマスター版女は女である HDリマスター版
(2006/09/30)
アンナ・カリーナジャン=リュック・ゴダール

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万事快調


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Tout va bien
1966年 フランス=イタリア映画
監督:ジャン・リュック・ゴダール,ジャン・ピエールゴラン
脚本:ジャン・ピエールゴラン
撮影:アルマン・マルコ
出演:イヴ・モンタン,ジェーン・フォンダ
ヴィットリオ・カプリオ,エリザベット・ショパン,カステル・カスティ

あらすじ-goo映画




70年代のゴダールの政治的商業映画。
曰く、「夢を失った人間のための夢物語」。

『中国女』を撮っていた頃の作風とは変わって、かなり具体的。
映画の文脈で政治を語るのではなくて、ここでは映画が政治に従属して、政治のための武器になりつつある。70年代ゴダールの作風を予感させる72年の作品。

食肉工場のストのアイロニーに満ちたシーンから始まって、物語が進行するにつれて、徐々にシリアスになっていく。

いかに現状を打破することが出来るのか、その資格はどのような現状にこそふさわしいのか・・・芸術としての商業映画と、プロパガンダとしての政治映画、とのせめぎあいの中で自問され、ゴダールなりの「夢物語」へと昇華されてゆく。

印象に残ったのは映画後半のスーパーマーケットのシーン。
機械的に行われる大量のレジをカメラが横に移動していきながら、スーパーの中央で共産党員がパンフレットの著書を売っている。客に内容について尋ねられるが、彼は詳しく答えられず、本の値段を声高に叫ぶだけ。「野菜を売るみたいに叩き得る本に意味があるのか」と客に突っ込まれる。そのうちにスーパーに乱入してきた若者たちが口々に「無料だ!!」と叫びながらスーパーの品物を籠に詰めてレジを通らずに運び出そうとする。扇動された客たちも品物を運び出そうとする。客が空っぽになったレジの向こう側で機動隊が客たちを警防で片っ端から殴りつけてゆく。


ラストシーン。一部始終を見てきた映画監督の男と記者の妻がカフェで会う。

だがナレーションは「普通ならば彼らは言葉を交わしてお互いの家に帰る。だがこの映画では見つめあうだけ」。


夢物語を仮想しながら、ゴダールはいつも自分の立ち位置を自問している。

映画を政治の手段にまで貶めながら、なお映画において一介の映画監督であらざるを得ない自らを告白し、その夢想を実現しようとする。

行動と芸術の合間で激しく振幅し続けた彼だからこその映画。

楽天的なタイトルとは裏腹に理想が潰えていった時代の「現在」を語った作品。



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万事快調万事快調
(2002/07/20)
イヴ・モンタン

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汚れた血


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MAUVAIS SUNG
1986年 フランス映画
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
出演:ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ ミシェル・ピコリ ジュリー・デルピー

あらすじ-goo映画




疾走する愛が夢見た未来

この映画を見なかったら、この監督に出会わなかったら、貧相な8ミリの機材を使って自主映画を撮ろうとは思わなかった。わたしに映画に感動させただけでなく、映画を撮ろうと決意させた映画。


舞台は近未来のパリ。愛のないセックスをするとたちまち死に到るレトロウイルスに感染する不治の病“STBO”に人々は恐れおののいていた。父親を地下鉄での不慮の死で失った金庫破りの青年アレックスは、孤児となって新しい人生に逃れる焦燥に掻き立てられていた。アレックスの父親の死がきっかけでその友人マルクは「アメリカ女」の率いるシンジケートから膨大な借金の返済を脅迫され行き詰まっていた。たった一社の製薬会社だけが開発に成功した“STBO”の免疫薬の強奪を計画したマルクは、金庫破りとしての腕を買って、アレックスを仲間に誘う。人生を塗り替えるべく、恋人を捨て、マルクの元へと向かったアレックスは、そこでマルクの愛人アンナを激しく愛してしまうようになる。


監督は若干25歳でこれを製作したレオス・カラックス。これに先立つ処女作『ボーイ・ミーツ・ガール』で自国フランスにおいて「ゴダールの再来」と呼ばしめた。

この後、『ポン・ヌフの恋人』を撮るが、これらの三作は全て主演ドニ・ラヴァンが演じる“アレックス”という青年による物語の三部作である。『汚れた血』は“アレックス”三部作の中で最もファンタスティックであり、感覚主義的な映像美であり、無軌道な疾走感に漂った快作だ。


カラックスの作る映画の全ては「衝突していく愛の物語」と言ってよい。

主要な役柄を除いて世紀末のパリの人々は陰影に沈み、愛のないことのモチーフ“STBO”の戦慄の中で表情が現れない。アレックスやマルク、アンナを巡る「愛にまつわる人たち」の顔だけがスクリーンいっぱいに活写される。そして彼らが対話するシーンは基本的に彼らが向き合い、視線を交わすことはない。話者か聞き手のどちらかが背中を向けたカットであったり、光の陰影の中で影に沈んでいたりする。

そしてアンナとアレックスの深夜の長い会話のシーン、あの部分に象徴されるように、愛に関する人と人の対話の時間のみに、ようやく映画的技法の呪縛から解き放たれて彼らは視線を交わし、それを確認しあうことが可能になる。それがたとえ、一方的な愛の疾走であったとしても。


「君とすれ違ってしまったら、世界全体とすれ違ってしまうことになる」。


アンナに激しく求愛しながらも、報われることのないアレックスの愛。しかし彼はアンナやマルクのために製薬会社の金庫を襲い免疫薬を奪う。警官隊に包囲されたビルをエレベーターで降りてきたとき、扉が開いた途端、ピストルの銃口を自分のこめかみに当てて不適な笑みを浮かべるアレックスの姿が圧巻である。


仲間のもとへ帰る途中に「アメリカ女」に狙撃され瀕死の重傷を負うアレックスをマルク、アンナらは海外逃亡のために飛行場へと車で運ぶ。アンナに支えられながらモノローグを繰り返すアレックス。


「ここを出たら、出ることが出来たら、自然の中に出る、全ての舗石を愛撫する、階段の一段一段に愛撫する。もし生き延びられたらだ。駄目だったら怒り狂うぞ」


「生きるすべを学ぶ時間はもうない。でももっと生きるつもりだった。まだ何年も、何年も。人生を整えるために」


「もう充分生きたといえる日が、いつか・・・・・・」


飛行場に辿り着いたアレックスは車のボンネットの上で仲間に見守られながら絶命する。

アレックスの死を看取ったアンナが飛行場の長い滑走路を突如疾走を始める。マルクが呼び止めるのも構わず疾走する。頬にべったりと付いたアレックスの血を、拭わず、まだその温かみの残り火を確かめるかのように手のひらをかざしたあと、やがて両手を閉塞した灰色の空に向かっていっぱいに広げながら、沈黙のうちに疾走する。「疾走する愛」。


「アンナ、信じるかい、疾走する愛を。永久にスピードの恍惚と共に疾走し続ける愛を」


このラストのアンナの疾走、そして中盤のラジオから流れるデビッド・ボウイの“Modern Love”と共に深夜のパリの街角を駆け抜けるアレックスの疾走。これがすべて「衝突していく愛」の殺ぎ落とされた象徴的表現の全てだと思う。

この疾走に感じ入ることができる人たちにのみ、暗黙と、特権的なニヒリズムと、対話の死を突き破ることの出来る、関係性の未来が開かれているのだ。


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汚れた血汚れた血
(2007/05/25)
ドニ・ラヴァン



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慢性鬱状態で活字を追うのは苦痛です。
電気ショック療法を受けたみたいに、
直前に読んだページの内容を忘れます。

思春期の衝動が、ハードロックに向かうか、
パンクに向かうかで、
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自分はパンクでした。

たけしの映画より、
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