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ザ・デイ・アフター


The Day After1


The Day After2




The Day After
1983年 アメリカ映画
監督:ニコラス・メイヤー
脚本:エドワード・ヒューム
撮影:ゲイン・レシャー
出演:ジェイソン・ロバーズ,ジョン・リスゴー
ジョベス・ウィリアムス,スティーブ・グッテンバーグ

あらすじ-goo映画




もとはTV映画で、公開時に全米で視聴率は46%(シェアは62%)だったという作品。日本でも劇場公開され、TV放送されたときに視聴率30%という高視聴率だったという。

製作された時期はアメリカはレーガン政権、冷戦下の軍備拡張競争がピークに達し、米ソ対立が深刻化された時代。今から考えれば、冷戦時代の最後にして最も相互確証破壊(MAD)による核戦争が実際にその通りに起こり得る規模の軍事危機に直面した頃ではなかったか。

僕は小学校の低学年の頃だったが、この映画のポスターが貼られた街角のバス停で毎日立っていたことをよく覚えている。実際にTV放映されたとき(日曜洋画劇場だったと思うが)も、吹き替えでこの映画を両親と観たことも覚えている。

世界に原爆とか水爆という核兵器というものが存在して、アメリカとかソ連という仲の悪い国同士が睨み合っていて、原爆を載せたソ連のミサイルが日本にも向けられている・・・・・・そういう、いわゆる「核戦争」の危機や冷戦構造について初めて僕が子供心に理解したのは10歳になる以前。年の近い姉が学校の社会科の時間に先生に教えられたというその話を初めて聞いたときは、思わず泣き出した。姉は途端に困惑して、「さっきのはウソ。もうアメリカもソ連も仲直りして原爆、どっちも持ってないんやで」と、真っ赤なウソで弟を慰めようとした。

小学校の低学年の頃はヒロシマの被爆の話だとか戦争の話を随分両親に聞かされたし、そういう映画もよく観に連れて行かされた。
被爆者の惨い被爆映像を映画館で見せながら母が子供の僕にこう言った。「ウルトラマンがいてもどうにもならんことがあるんやで」。

『ザ・デイ・アフター』のポスターが貼られたバス停の後ろの壁を眺めながら、「明日、もし、核戦争が起こったら、自分は今日これから、生きていて最後のバスに乗るんやな」と真剣に空想したこともあった。

だから、この映画は僕にとって、僕が生きた冷戦時代の原風景のようなもので、結局(今のところ)起こらなかった第三次世界大戦のトラウマとしての心象だった。

戦後生まれの日本人である僕がこの映画から受けた核戦争の衝撃は、たぶん、80年代初めにこの作品をTVで見た全米一億人のそれぞれの衝撃とほとんど同じようなものだったのではなかったかと思う。

明確に反戦・反核映画でありながら、この映画からイデオロギー的要素がまったくと言っていいほど僕には感じられない。
同じような志向性を扱った作品は日本でもたくさん作られた。でも日本で作られた(特に冷戦時代)反戦映画やTVドキュメンタリーといった代物と『ザ・デイ・アフター』の間にはなにか決定的に違うものを感じる。

それをどのように言い表せば適切なのか、よく分からない。

ただ、こういう言い方が適切であるか否かは分からないが、日本の多くの作品が「戦後民主主義」という「約束事」を土台にして、予定調和的に核への抗議をテーマに引き出してくる傾向が多かったことが決定的な相違の要因の一つではないだろうか。

つまり、逆に言えば、アメリカ映画の側には日本の「戦後民主主義」のような「約束事」がなかった。約束事の代わりに、『ザ・デイ・アフター』にはモチーフとして冷戦を如実に体感する恐怖の「背景」だけがあった。

冷戦が熱戦に変わったとき、ICBMの弾道が頭上に降り注ぐとき、その日、そしてその日の後・・・・・・それを出来うる限り思考してみようとする「必然」だけがあった。
その想像力の結果として、彼らはあの架空のカンザスシティーの「翌日」を描かざるを得なかった、そういうシンプルな「必然」への経過が、当然の結果としてあの映画から傾向的要素や物語の予定調和と軌道を違えたに過ぎなかっただけではないだろうか。


『ザ・デイ・アフター』に対する批判、特に被爆国である日本からの批判は、あの映画が公開された当時からネットで視聴されるようになった現在に到るまで、一貫として存在するのは「核兵器の惨状はあの程度のものではない」という主張が最も多数を集約する反論だろう(この批判に対してはこの映画がもともとTV放映されたドラマであったという事情が考慮されるべきではあると思うが)。

確かに1945年の広島や長崎に起こったことを他の国の人間よりも私たちは知識として多くを教えられている。『はだしのゲン』の1ページに描かれた酸鼻と比べれば、あまりにも「体験したこと」と「想像したこと」の間には大きな断絶がある。

だが、『ザ・デイ・アフター』がアップされたときにニコニコ動画で誰かがコメントしたことでもあるが、なにも核戦争のリアルのディティールを描くことだけが「体験した」側の特別な表現であったとしても、それが全ての本質ではない。
核の惨劇を「想像する」側がマクロに俯瞰する「その翌日」からの全体を覆う世界の悲惨さへの記述をも、本質の一つではないか。
なによりも、いつかやってくるかもしれない「その翌日」は、我々全体の将来であるのだから。

私たちは追体験できない事柄として1945年のヒロシマ・ナガサキを共有している。

同じように今までになかったものとしての“The Day After”を体験するかもしれない世代の人間として、起こり得る将来の一つを担うかも知れぬ運命を共有しあっている。

そういう意味での「平等」な地平線上でカタストロフを考えるとき、私たちは『ザ・デイ・アフター』が描かれたあの地点は非常にシンプルな「必然」の一つとも言えるのではあるまいか。


余談ではあるが、『ザ・デイ・アフター』を検索していたらGoogleではほとんど『デイ・アフター・トゥモロー』の関連サイトが数多く出てきた。

25年前からは考えられなかったことだが、冷戦はあっけなく終結して、ドイツが統一され、ソ連は解体された。
冷戦の後はグローバリズムが現れて原理主義が覇権大国と睨み合う危機の時代へ入れ替わった。
そして、今では「その日の翌日」である「明日」を確実なカタストロフとして環境破壊の未来が語られるようになっている。

だが、この映画の結末をいま一度思い出してもらいたい。

爆心地近くのカンザスシティーで跡形もなくなった自宅跡に辿り着いた主人公の老医者は、妻の形見である腕時計を見つける。廃墟となったその場所に見知らぬ被爆者の家族が佇んでいるのを見て、老医は激しく叫ぶ、「俺の家だ、出て行け!」。被爆者家族のうちの一人の老人が主人公にオレンジを差し出すが、それを受け取らず、元の家主は焼け跡の地面にうずくまる。やがてオレンジを差し出した老人が主人公の医者に歩み寄り、二人は静かに抱擁する。

このラストシーンの光景の重みはなにひとつ意味を失うことなく、憎しみ合い、時に破壊を希望と錯誤する私たちの行き先に、指し示し続ける。



25年前の冷戦の戦慄の中で、私たちはもしも「その日」を終えたとき、もう少しなにごとかの叡智に理解を進めることができるかもしれない、ということを知った。



だが「その日」の後にはもはや「明日」は来ない。

「明日」という楽観を想定し得ないというリアルな背景は、今なお、変わってはいない。



The Day After3




The Day After4








ザ・デイ・アフターザ・デイ・アフター
(2004/08/27)
ジェイソン・ロバーズ

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女は女である


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UNE FEMME EST UNE FEMME
1961年 フランス=イタリア映画
監督:ジャン・リュック・ゴダール,ジャン・ピエールゴラン
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ,ジャン・クロード・ブリアリ,ジャン・ポール・ベルモント

あらすじ-goo映画




久しぶりに観たゴダールの映画。

20代の前半だった頃、男と女の関係が、僕にとって、生きるか死ぬか、みたいだった頃、ゴダールの男女と政治と闘争についての映画は僕には悲惨に感じられた。

ゴダールは現実を描くときに、現実から遠いところから中心をクローズアップさせる。
現実から程遠いのに、それが現実を極度に映し出しているかのように見える。

人はそれを「寓話」と呼ぶ。

そしてこの映画は男と女についての、ゴダール流の最も幸せな、ささやかな魔法に満ちた寓話。

初期のこの作品には、まだ『男と女のいる舗道』の悲惨さや、『気狂いピエロ』の攻撃性もない。

子供を欲しがる女とその彼氏、という単純なストーリーのアウトラインに沿った、幸せなラディカルだけが魔法みたく弾けている。

「子供が欲しい」とひたすら哀願するアンナ・カリーナが一途で可愛い。 

ラストシーンが最も幸せに満ちたゴダールの映画。



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女は女である HDリマスター版女は女である HDリマスター版
(2006/09/30)
アンナ・カリーナジャン=リュック・ゴダール

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万事快調


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Tout va bien
1966年 フランス=イタリア映画
監督:ジャン・リュック・ゴダール,ジャン・ピエールゴラン
脚本:ジャン・ピエールゴラン
撮影:アルマン・マルコ
出演:イヴ・モンタン,ジェーン・フォンダ
ヴィットリオ・カプリオ,エリザベット・ショパン,カステル・カスティ

あらすじ-goo映画




70年代のゴダールの政治的商業映画。
曰く、「夢を失った人間のための夢物語」。

『中国女』を撮っていた頃の作風とは変わって、かなり具体的。
映画の文脈で政治を語るのではなくて、ここでは映画が政治に従属して、政治のための武器になりつつある。70年代ゴダールの作風を予感させる72年の作品。

食肉工場のストのアイロニーに満ちたシーンから始まって、物語が進行するにつれて、徐々にシリアスになっていく。

いかに現状を打破することが出来るのか、その資格はどのような現状にこそふさわしいのか・・・芸術としての商業映画と、プロパガンダとしての政治映画、とのせめぎあいの中で自問され、ゴダールなりの「夢物語」へと昇華されてゆく。

印象に残ったのは映画後半のスーパーマーケットのシーン。
機械的に行われる大量のレジをカメラが横に移動していきながら、スーパーの中央で共産党員がパンフレットの著書を売っている。客に内容について尋ねられるが、彼は詳しく答えられず、本の値段を声高に叫ぶだけ。「野菜を売るみたいに叩き得る本に意味があるのか」と客に突っ込まれる。そのうちにスーパーに乱入してきた若者たちが口々に「無料だ!!」と叫びながらスーパーの品物を籠に詰めてレジを通らずに運び出そうとする。扇動された客たちも品物を運び出そうとする。客が空っぽになったレジの向こう側で機動隊が客たちを警防で片っ端から殴りつけてゆく。


ラストシーン。一部始終を見てきた映画監督の男と記者の妻がカフェで会う。

だがナレーションは「普通ならば彼らは言葉を交わしてお互いの家に帰る。だがこの映画では見つめあうだけ」。


夢物語を仮想しながら、ゴダールはいつも自分の立ち位置を自問している。

映画を政治の手段にまで貶めながら、なお映画において一介の映画監督であらざるを得ない自らを告白し、その夢想を実現しようとする。

行動と芸術の合間で激しく振幅し続けた彼だからこその映画。

楽天的なタイトルとは裏腹に理想が潰えていった時代の「現在」を語った作品。



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万事快調万事快調
(2002/07/20)
イヴ・モンタン

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汚れた血


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MAUVAIS SUNG
1986年 フランス映画
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
出演:ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ ミシェル・ピコリ ジュリー・デルピー

あらすじ-goo映画




疾走する愛が夢見た未来

この映画を見なかったら、この監督に出会わなかったら、貧相な8ミリの機材を使って自主映画を撮ろうとは思わなかった。わたしに映画に感動させただけでなく、映画を撮ろうと決意させた映画。


舞台は近未来のパリ。愛のないセックスをするとたちまち死に到るレトロウイルスに感染する不治の病“STBO”に人々は恐れおののいていた。父親を地下鉄での不慮の死で失った金庫破りの青年アレックスは、孤児となって新しい人生に逃れる焦燥に掻き立てられていた。アレックスの父親の死がきっかけでその友人マルクは「アメリカ女」の率いるシンジケートから膨大な借金の返済を脅迫され行き詰まっていた。たった一社の製薬会社だけが開発に成功した“STBO”の免疫薬の強奪を計画したマルクは、金庫破りとしての腕を買って、アレックスを仲間に誘う。人生を塗り替えるべく、恋人を捨て、マルクの元へと向かったアレックスは、そこでマルクの愛人アンナを激しく愛してしまうようになる。


監督は若干25歳でこれを製作したレオス・カラックス。これに先立つ処女作『ボーイ・ミーツ・ガール』で自国フランスにおいて「ゴダールの再来」と呼ばしめた。

この後、『ポン・ヌフの恋人』を撮るが、これらの三作は全て主演ドニ・ラヴァンが演じる“アレックス”という青年による物語の三部作である。『汚れた血』は“アレックス”三部作の中で最もファンタスティックであり、感覚主義的な映像美であり、無軌道な疾走感に漂った快作だ。


カラックスの作る映画の全ては「衝突していく愛の物語」と言ってよい。

主要な役柄を除いて世紀末のパリの人々は陰影に沈み、愛のないことのモチーフ“STBO”の戦慄の中で表情が現れない。アレックスやマルク、アンナを巡る「愛にまつわる人たち」の顔だけがスクリーンいっぱいに活写される。そして彼らが対話するシーンは基本的に彼らが向き合い、視線を交わすことはない。話者か聞き手のどちらかが背中を向けたカットであったり、光の陰影の中で影に沈んでいたりする。

そしてアンナとアレックスの深夜の長い会話のシーン、あの部分に象徴されるように、愛に関する人と人の対話の時間のみに、ようやく映画的技法の呪縛から解き放たれて彼らは視線を交わし、それを確認しあうことが可能になる。それがたとえ、一方的な愛の疾走であったとしても。


「君とすれ違ってしまったら、世界全体とすれ違ってしまうことになる」。


アンナに激しく求愛しながらも、報われることのないアレックスの愛。しかし彼はアンナやマルクのために製薬会社の金庫を襲い免疫薬を奪う。警官隊に包囲されたビルをエレベーターで降りてきたとき、扉が開いた途端、ピストルの銃口を自分のこめかみに当てて不適な笑みを浮かべるアレックスの姿が圧巻である。


仲間のもとへ帰る途中に「アメリカ女」に狙撃され瀕死の重傷を負うアレックスをマルク、アンナらは海外逃亡のために飛行場へと車で運ぶ。アンナに支えられながらモノローグを繰り返すアレックス。


「ここを出たら、出ることが出来たら、自然の中に出る、全ての舗石を愛撫する、階段の一段一段に愛撫する。もし生き延びられたらだ。駄目だったら怒り狂うぞ」


「生きるすべを学ぶ時間はもうない。でももっと生きるつもりだった。まだ何年も、何年も。人生を整えるために」


「もう充分生きたといえる日が、いつか・・・・・・」


飛行場に辿り着いたアレックスは車のボンネットの上で仲間に見守られながら絶命する。

アレックスの死を看取ったアンナが飛行場の長い滑走路を突如疾走を始める。マルクが呼び止めるのも構わず疾走する。頬にべったりと付いたアレックスの血を、拭わず、まだその温かみの残り火を確かめるかのように手のひらをかざしたあと、やがて両手を閉塞した灰色の空に向かっていっぱいに広げながら、沈黙のうちに疾走する。「疾走する愛」。


「アンナ、信じるかい、疾走する愛を。永久にスピードの恍惚と共に疾走し続ける愛を」


このラストのアンナの疾走、そして中盤のラジオから流れるデビッド・ボウイの“Modern Love”と共に深夜のパリの街角を駆け抜けるアレックスの疾走。これがすべて「衝突していく愛」の殺ぎ落とされた象徴的表現の全てだと思う。

この疾走に感じ入ることができる人たちにのみ、暗黙と、特権的なニヒリズムと、対話の死を突き破ることの出来る、関係性の未来が開かれているのだ。


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汚れた血汚れた血
(2007/05/25)
ドニ・ラヴァン



キル・ビル


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キル・ビル



“Kill Bill” 
Vol.1-2003年 Vol.2-2004年 アメリカ映画
製作・監督・脚本 :クエンティン・タランティーノ
出演:ユマ・サーマン、ルーシー・リュー
ダリル・ハンナ、デヴィッド・キャラダイン
サニー千葉、ジュリー・ドレフュス、栗山千明


あらすじ-goo映画 Vol.1 Vol.2




わたしは貧乏なので、映画は映画館ではめったに見ません。。。
レンタルビデオ化されても新作料金のうちは借りません。。。
したがって、わたしの映画レヴュー、すべて必然的にリアルタイムを逃しまくり、ってわけで。。。。



なぜ突如タランティーノかというと、梶芽衣子の『女囚さそり-701号怨み節』を借りてきたから♪



タランティーノは『キル・ビル』と『パルプ・フィクション』以外、見ていません。

なぜかっつーと、最初に見た『パルプ・フィクション』がカンヌでパルムドール取ったことと、作品の内容がわたしの中で変な異化作用を起こしたからなんですね。。。。

お得意の時間軸飛びまくりのシナリオ効果、『パルプ・フィクション』見たときには、「自主映画小僧の難解ホークス」にしか思えなかったんです。面白くなかった。音楽も今でこそアル・グリーン聴いてますが、当時は全然趣味が合わなかった。台詞の使い方とか、ジャームッシュみたくカッコいいユーモラスになり損ねたコテコテのダサ気に感じたし。。。。 

あの時間軸テクの必然性が全く感じられなかったんですよ。



『パルプ・フィクション』、あんまりにもわたし的にイケてなかったので、ことごとくタランティーノ作品、忌避し続けちゃいました(だって、レンタル料金ひねり出すのもケチる貧乏性だし)。



『キル・ビル』はブルース・リーもどきのコスチュームと、ウェディングドレスの日本刀、あのスチールで、きちゃいました。。。。


『キル・ビル』が面白いと思えたのは、まさにあの時間軸ずらしがピタッとはまって、物語の語り口にこれしかない!ってな妥当な効果を感じたからに他なりません。

ビルを殺す― まさにそれ一本調子で頑なにストイックに貫かれただけのテーマのシンプルさ加減によって、あの映画の仰々しい過去作品パロディの連発やら、千葉真一の不自然さやらを何とも思わせないほどスムーズに感じさせられたんでしょうね。


Vol.2が特に好きなんですが、劇場公開の興行収入の問題で2部作に分けられちゃってますが、あれが1本にまとめられても多分退屈しなかっただろうな。Vol.1の過剰演出はきっとこれが1本の映画として上映される想定で考えられた、物語序盤の起伏の部分だからだと思われます。

わたしはビルの結末(てか、結末にブライドが用いた手段)以外はすべて話が読めてしまいましたが、あの結末だけは思いつきませんでした。

やっぱ、『死亡遊戯』のコスチューム、伊達にパロッただけじゃなかったんですね。。。伏線だったんですな。。。。



Vol.2のラストのモノクロのスタッフロール、ボーカル曲のBGMとあの演出、どっかで見たような気がすると思ってたら、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のラストのスタッフロールに雰囲気が似てるように思えたんです。

あのオリバー・ストーン作品、実はわたし、だいっっきらいなんですが。。。。

あの、なんつうか、殺しまくりの映画に申し合わせみたいなマスコミ批判みたいなテーマ性、ユル~いカンジでぶつけんなよ!!!つぅ~んでしょうか。。。

あの映画と『キル・ビル』はどこか相似性を感じさせながら全く別物のように感じられるのは、「殺す」だけの映画なんだけど、「殺すだけ」ってことにどれだけストイックでありながらいろんなものをぶち込めて鑑賞に堪えうるものにするか、ってところに全然違いがあるんですね。

社会派オリバー・ストーンは、「殺すだけ」を満たすほどのものがなかったから、妙なマスコミ叩きを不自然にくっつけちゃって、タランティーノと決別してしまったのかもしれません。


「殺すだけ」の物語の中にどれだけの膨らみ、人間の彩をひっそりとしのばせるか。。。

ビルの元を去ったブライドの理由、ビルがそれに対して行った理由、ビルの結末に込められた、ブライドの秘密が、語られない話の饒舌に語り尽くすありふれた“Love Story”の切ないカタルシスを、憎らしいほどの愛しさで「殺すだけ」に込められた「殺すだけに終わることの出来ない殺しの理由」となってわたし達を満たしてくれる気がします。



ユマ・サーマンは「わたしは少しばかり悪い女だから・・・」と告げますが、ここにいたって、本当に、いい女、可愛い女としてわたしはブライドに惚れちぎってしまいましたのですよ。。。。




『ナチュラル・ボーン・キラーズ』はタランティーノによってメガホンが取られていたら、もっと別の映画になっていたかもしれません。



『ナチュラル・ボーン・キラーズ』にある意味で「挫折」したタランティーノが、更にストイックに純化して昇華させた“Love Story”の結晶が『キル・ビル』だったのかもしれません。



この映画がパルムドールでもわたしは全く構わないぐらい、クラシックな仕上がりの名作だと思うんですけどね。。。。



余談ですが、『キル・ビル』に感化されまくったわたしがその勢いでオマージュなんか捧げちゃうノリで作った詩が「待伏せ地獄篇ワルツ」なのでした。。。。(こちら-IEで見れます




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キル・ビル Vol.1 & 2 ツインパックキル・ビル Vol.1 & 2 ツインパック
(2004/10/08)
ユマ・サーマン栗山千明



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慢性鬱状態で活字を追うのは苦痛です。
電気ショック療法を受けたみたいに、
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思春期の衝動が、ハードロックに向かうか、
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自分はパンクでした。

たけしの映画より、
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