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マルサの女


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マルサの女


1987年 日本映画
監督・脚本:伊丹十三
撮影:前田米造
音楽:本多俊之
出演:宮本信子,山崎努,津川雅彦 ,大地康雄 ,桜金造


マルサの女(1987) - goo 映画






伊丹十三の映画3作目にして、おそらく多くの人がこれが伊丹映画の代表作として挙げるかもしれない名作。僕が見た伊丹作品も『お葬式』でもなく、『タンポポ』でもなく、これが初見だった。

80年代の初期のフランスで映画の変革期が訪れ、新しい監督世代として、ジャン・ジャック・ベネックス(『ディーバ』)だとかレオス・カラックス(『ボーイ・ミーツ・ガール』)やリュック・ベッソン(『最後の戦い』)という顔ぶれの新しい感覚を持った映画作家たちが現れた。彼らの傾向や共通軸をロック・ミュージックの分野で「渋谷陽一」的に喩えてみるならば、プログレだとかディスコ全盛の商業主義的傾向のポップミュージックを打破・唾棄するアンチカウンターとしてパンク・ニューウェーヴ世代が勃興した流れと同じようなものだと言える。

そういうフランス映画のパンク・ニューウェイヴ的作家世代と通じるような斬新さで、新しい感覚の表現を創出し、同時にマスとしての大衆にペイできる胃の腑の強い作品を提示したのが伊丹十三の真骨頂であり、その最も影響力を行使し得たピークが、この『マルサの女』だったのかもしれない。


刑事やヤクザやアウトローが出てくるわけでもなく、「税金の取立て」という一見地味な筋書きがアクション映画に似た高揚感を生み出す。国税庁査察官という肩書きの人間たちに焦点を当てた映画なんて誰も想像してなかったし、それが立派にカタルシスを観客に与えるものだと信じて、実行して成功できるような、とんでもない先見性とセンスと実力が伊丹監督にはあった。

伊丹十三という作家はある意味日本人離れした理知を持った人ではあったかもしれないが、決して前衛的な方法を駆使する孤高の芸術家ではなかった。どのようにすれば売れるのかを、つまり「どうやって観客と同じ視線に横たわるか」を忘れずにいられる、商業ベースの人だった。

特別なアングルを使うわけでもない。だけど、この映画の冒頭のカットが乳房を貪り吸う老人の姿から始まるとき、いったい何の映画が始まるのかと一瞬撹乱させられる。山崎努が演じるこの映画の悪玉権藤が秘書に電話を放り投げて浮かれるシーンの仕草なんか、僕の映画好きの大学の先輩なんかは「この映画のシーンで一番強烈だった」と事あるごとに述懐する。それにマルサが査察に踏み込むときに所持したショルダーバックみたいに大きな携帯電話。あれに時代(古いと言う意味での)を感じる、という向きの方もおられるようだが、僕はむしろああいうものは伊丹映画でしか使用されないような小道具だからこそ、いつ見ても新鮮さを感じる。そしてTV番組のBGMで使い回されて何度聞いてもすぐにこの映画をまた観たくなるようなサントラのテーマ曲。もはや伊丹映画の代名詞みたいに存在を誇示するような語り草となった本多俊之の五拍子リズムの印象的なテーマ曲だが、過去の邦画には全く有り得なかったこの映画のスピーディーなテンポの完成度と相俟って、ある種日本映画で最も普遍的なサウンドトラックの一つのようにすら感じる。

脱税アクション(?)映画という奇抜な主題や、悪役・権藤の描き方、演出や撮影・美術の細やかな仕掛け一つ一つが一見奇をてらったかのようなデフォルメのようであったり、過剰なまでに監督独自の賛否両論的に顕示されるセンスが「これでもか」と言わんばかりに出てくるのが伊丹作品の特徴。しかしドラマ進行の語り口は生真面目すぎるくらいオーソドックス。そして描かれる人物一人ひとりの個性や舞台の役目を丁寧に描き分け、誰一人無駄な登場人物がない(伊丹映画でのキャストのエンドロールではほぼ全てのキャストに役名がきちんと付いてるのに注目して欲しい)。そして物語の主要な人物、主人公とそれと対峙する「悪役」の人間性を深く掘り下げて、随所で印象的に見せていて、決して平板ではない。冒頭の乳吸いシーンだとか脱税者の「特殊関係人」の女が素っ裸になって査察官に毒づくシーンみたいな、ほとんどマンガでしかやらないようなグロテスクな平面性とは対極的に、脱税者・権藤の息子思いな一面や、主人公・板倉亮子と権藤の恋愛にも似た関係の描写などが、アンバランスな矛盾に揺れる様にありながら、しっかりと人間描写の正統的方法として真摯に叙述されている。

「変なキャラだよな」みたいな強烈さがありながら、「こんな奴、いるよなあ・・・・・・」みたいな実感がわざとらしくないわけだ。

そういう人間の「写し方」が、「生き様」という言葉にありがちな大仰さに集約されず、コミック感覚にエキセントリックで普通のドラマの数倍クールに洗練されてるのに、人間の「描き方」に気づかれないようなぐらいの気遣い方で泥臭かったりする。

四季に割り振る章立てで進行して、税務署職員時代の板倉と権藤の別れ方に使った小道具を、査察のクライマックスを越えた後、夕刻のラストシーンにこっそり「仕掛け」として用いたりする(それがドラマの結末の鍵になる)。前者のシーンで息子に金を残す方法を思案して聞かせる権藤との会話を遮断して立ち去る亮子に「待ってくれ!」と言いつつその場に権藤は残される。そして全てを終えるラストシーンで、遊んでいる幼児の姿を眺めながら権藤の呟く台詞が淡々と染み入る。「このごろああいうのを見ると自分の手のひらから幸福がすり抜けていくように感じるんだ」。

自分の元で働かないか、と亮子にプロポーズ(と言うのがふさわしい気がする)する権藤に、黙って亮子はゆっくり横に首を横に振る。

そして権藤が最後に亮子に託すもの・・・・・・そこまでの、そういう、人間に対する、なにか、監督の、生真面目で執拗なほどまでの「心優しさ」とも言える、創作の気遣い方。


そういう部分に伊丹十三の本質があって、野暮に言えば「貫かれたヒューマニズム」と言うようなものだという気がする。そしてこの人は、そういうものは野暮なんだから、色鮮やかにキラキラする装飾の中のほんの隅っこの引き出しの中に、誰にも知られないようにこっそり忍ばせて置いておく、そういう粋な心優しさを控え目に懐に抱えた映画作家だったんだと思ったりする。

そんな伊丹映画のエッセンスが最もストレートな形で抽出されているのが、この『マルサの女』なんじゃないだろうか。



以後、「○○の女」タイトルの形はいろんなテーマとキャラでシリーズ化された。それぞれの作品の主題は同時代的とも先見的とも見える感じで、いずれもエンターテイメントなドラマの機軸をブレずに時代を切り取り映し出した。それはバブル崩壊前の地価狂乱状況の喧騒であったり(『マルサの女2』)、「任侠」としてではなく「反社会的な暴力の象徴」としてヤクザを映画で描き、それとケンカして勝つ方法まで教えてくれる作品だったり(『ミンボーの女』)、社会問題として宗教団体の犯罪やスーパーの商品偽装を先取りして予見させたようなもの(『マルタイの女』、『スーパーの女』)だったりする。

そういう作品の危ういテーマ性もあって、実際に伊丹十三は凶行に襲われたりスクリーンを引き裂かれる事件に遭遇しているわけだが、伊丹映画にまつわる独特のブラックユーモアとかパロディセンスとか、なによりも絶大な大衆性を備えていたことが影響していたせいか、彼の作品性のシリアスな一面と実際に作品がもたらしたファナティックな社会的影響との関係について切実に論じられた場面は、今から思い起こしてみればだが、意外に少なかったような気がする。

伊丹十三のほぼ晩年の頃だっただろうか、彼のデビュー作『お葬式』と同じくATG映画でのデビュー作出身の、現在に到るまでただの2作しか映画を作っていない某映画監督のトークショーを観に行ったことがあった。そのときになんとなく印象に残った話の一つに、その某監督が伊丹十三とデビッド・リンチの二人について徹底的に過小的評価を下していたことだった。その当時も思ったことだし、今でも何故と思うのだが、今現在におけるまで、その某監督に限らずとも、映画の批評場面において(特にATG系の映画を芸術映画の「正統」と評価する人々の間で)、伊丹監督作品について「正当」に評価されていないという思いが僕にはある。評価とまで言わずとも、伊丹映画がもたらした日本映画の映画史的位置づけを定められず、他の物故映画作家やその作品群と同じ批評的俎上に並べられないまま、いまだに「異端児」というか「在って実は無かったことのように」意識されていないように、映画を批評する玄人事の問題として、僕は批評の側の怠惰を感じるのだ。

そういう怠惰という実は瑣末な事柄と、伊丹十三の急逝について思い巡らすときに、僕は伊丹監督自身の悲劇性や、彼の残した作品が彼の自死を持って露呈させたかのような予めずっと以前から在りながら知られてこなかった切実な陰り、といったものを感じ取っている気がする。切実、というのは、或いは、やり場の無い、と言い換えてもいい。理知的に捉えているが故の悲劇性、というようなものだ。

ATG映画という芸術至上主義的空間から、一気にマスの混濁するエンターテイメントに滑り降りた伊丹映画は、絶えず奇抜な表層とマスが求める商業的立場との間を理知的な視点で激しく振幅を繰り返していたのか。そしてそういう事柄は巧妙なアイロニーなどによってカムフラージュされた伊丹映画の中には表層には現れずに、作家としては皮肉なことではあるが、伊丹監督自身の結末によってしか最終的には私たちには届き得なかった、理知的であるが故の、切実な陰りであり、やり場の無さというような悲劇性だったのではないかと僕は思う。

伊丹十三の唐突な自殺を知って、しばらくして、僕はなんとなく、同じような運命を辿った創作者として芥川龍之介を思い出していた。



『マルサの女』の夕刻のラストシーンを思い起こすたびに、権藤が亮子へのメッセージをナイフで指先を切りつけて託すあの場面を見るたびに、伊丹十三という人がどんなふうにか人間を理解していたかを、もしかしたら、どんなにか人間について諦念の中で心優しく見定めていたかも知れぬかを思う。

そして、彼が上手に隠していた、実は骨太く泥臭い感じの、純度高く蒸留されたヒューマニズムみたいなものを見つけ出せるように感じる。


最も巧みで機知に富んだ小賢しい隠し事のなかにこそ、一番、人が人に敢えて告げない、いかにも人間らしい小賢しくも身の丈そのままの姿があるのだ。

これはそういう、隠し事についての、脱税の映画。





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マルサの女マルサの女
(2005/08/24)
宮本信子

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太陽を盗んだ男


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太陽を盗んだ男


1979年 日本映画
監督:長谷川和彦
脚本:レナード・シュレイダー
出演:沢田研二 菅原文太 池上季美子


あらすじ-goo映画




黙示録の時代に表象される人々の孤独


もはや20年以上前の映画であり、監督作品がわずか2本にもかかわらず現在でも根強いカルト的支持者を擁する引退同然の映画監督長谷川和彦の貴重な2作目。


いたって平凡な東京在住の中学理科教師が交番を襲って拳銃を奪い、東海村の原発からプルトニウムを強奪する。アパートの自室で苦労の末、一個の原子爆弾を完成させる。理科教師の男は原爆の保有を密かに政府に知らせ、国家を相手に脅迫を開始する。といっても野球のナイター中継を延長させたり、ローリング・ストーンズの来日を要求したり、脅迫内容に困って仕方なく現金を要求したりと、バイタリティに欠け、なんともショボいのだが。やがて男は自分の体が原爆製造の際に浴びた放射能障害に蝕まれていることに気づく。


かなりB級だが戦慄に満ちた映画ではある。なにせ核兵器が絶対禁忌の唯一の被爆国にして原爆がたった一人の男に製造されるのである。今でこそ米国TVドラマでテロリストの核攻撃が題材になる時代だが、核拡散の問題を劇場型犯罪に結びつけた発想自体がすでにメガトン級である。

平凡な市民生活を送る愉快犯というアイデアも製作当時の発想にしては冴えている。ディティールの恐ろしいまでの粗さを抜きにすれば水爆ぐらいの迫力のある作品だろう。なんせドラマ前半、中学教師と生徒が乗ったバスを完全武装した老人にバスジャックされたとき、皇居に強行侵入して手榴弾を投げ込んだりするんだから。


ストーリーの展開は細かいミスに目をつぶればかなり見ごたえがある。原爆が完成したときに沢田研二がボブ・マーリーを聞きながら踊るシーンなんかのユーモラスさもある。主人公が結構いい人(?)だったりするので感情移入もしやすい。

ただ全編を覆うのは無機質というか殺伐を通り越した虚無的な孤独感である。もう死んでしまっているかのような孤独感である。

映画冒頭は核実験のキノコ雲とその轟音とともに始まるが、その死のイメージに相応しい透徹された冷ややかな孤独感だ。

可愛がっていた野良猫がうっかりプルトニウムの破片を食べて即死するシーンなどむちゃむちゃ痛い。警官に包囲されたデパートのトイレで抜けていく自分の髪の毛を見て錯乱するシーンも哀しい。

なんかだ男が一人、自分の部屋でこの世の最終兵器を作っていくという設定自体が寒々とした侘しい孤独としか言いようが無い。


なにかあまりに原爆というヨハネ黙示録的ハルマゲドンの絶対性に対して、それと向き合う一個の人間の物理的・存在論的規模があまりにも過小で貧弱で儚すぎるのである。

冒頭の核爆発の映像がこの映画が核時代を生きる人間の砂塵のような存在感を表出し、個人の観念の中で核と相対することがいかに不可能で圧倒し尽くされるかを象徴している気がする。


菅原文太演じる刑事と死闘を繰り広げた後、男は投げやりに生気を喪失した顔で、時限装置がオンになった原爆の入ったバッグを抱えて力なくガムを噛み、街の中へとぼんやり歩いていく。時限装置の秒針の音が次第に高まっていき、ふっと音が止まった瞬間、画面は脱力気味の男の顔のストップモーションとともに核爆発の轟音が流れて映画は終わる。

このラストの戦慄は凄まじいが、エンドロールが流れる頃になんとも言えないやりきれなさを感じるのは、わたしがシリアスに考えすぎなのかねえ。


わたしは長谷川和彦氏と握手をして言葉を交わしたことがある。「孤独を感じました」と映画の感想を述べると、長谷川氏は「そうか?」と不可解そうな表情をしていた。頼むから、寄り道道草を食わず、早く連合赤軍映画を作って、カムバックしてくださいよ、長谷川監督。


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太陽を盗んだ男太陽を盗んだ男
(2006/06/23)
沢田研二



蘇える金狼


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蘇える金狼


1979年 日本映画
監督/村川透   原作/大藪春彦
撮影/仙元誠三   音楽/鈴木清司
出演/松田優作、風吹ジュン、千葉真一、
成田三樹夫、佐藤慶、真行寺君枝
制作/角川春樹事務所


あらすじ-goo映画




長いこと見たかったのだが、「Yahoo! 動画」で流されていた関係か、レンタルビデオ屋さんに行ってもいつもレンタル中だった。



期待が大きすぎて、あまり面白くなかった。。。。



わたしはこの映画を見る以前に、この映画に関するネタはほとんど網羅しまくっていた(てか、この映画の「名シーン」のmpgファイルをストリーミングしているサイトまでみつけて、観まくっていた。。。)



アクション映画に分類されることが多いが、アクションはしょぼい。村川透と松田優作なら、未見の『野獣死すべし』を除けば、『最も危険な遊戯』が最もアクション映画だったと思う。

むしろ『探偵物語』(TVドラマの方ね)に通じるような、松田優作の多彩なキャラのバリエーションの片鱗を見せてくれるような作品という気がする。

一連の優作映画の中で位置付けしてみると、ブルース・リーのフィルモグラフィに喩えて言えば『怒りの鉄拳』に位置するような作品だろうか(なんのこっちゃい、ですね)。『怒りの鉄拳』でブルース・リーが電話屋さんをコミカルに演じたように、松田優作の演技の幅の広さを端的に窺い知ることのできる、最も初期の作品、ということでしょうか。


風吹ジュンの役のラストのオチは意外でしたが。。。 ちょっといきなりウェットに走ってオチをつけたような粗雑さを感じましたが。




なぜだか分りませんが、観賞後の余韻としては、ルイ・マルの『鬼火』を見終わった後の気分と同じ感じでした。激しく種類の異なる映画ですけど。



『鬼火』の持つ、うざったらしい観念性をすべて行動で表現し尽くしたら、松田優作の「朝倉哲也」というキャラに到達する、という感じがしたんです。



それにしても、村川透のブルーはきれいですね。。。


北野武よりも、ジャン・ジャック・ベネックスの『ディーバ』よりも、遥かに先駆的に「都市の青」を表現したのは彼だとわたしは思います。





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蘇える金狼蘇える金狼
(2000/12/22)
松田優作






自殺サークル

 

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自殺サークル


2001年 日本映画
監督・脚本:園 子温
出演:石橋凌 永瀬正敏 さとう珠緒 野村貴志 室生舞 ROLLY


あらすじ-goo映画



ファシズムとしての自殺症候群 「さあ、ここへ飛べ!」


人間は本来、死の不安(あるいは生の不安)というような極限状態、あるいは緩やかな絶望の連続に置かれると、自殺か他殺という二極化へ向かうとわたしは考えています。これは個人の心理状態だけでなく社会の動向にも応用できそうで、いま日本社会が右傾化していっていますが、右傾化というのは社会が他殺に向かうベクトルだと思うのです。弱者叩きやステレオタイプな民族差別は経済構造の変化やモラルハザードによるアノミー(無秩序化)によって、自己不安に駆り立てられた人間の、自己脆弱感の吐露のようなものだとわたしは考えています。自己脆弱感の吐露といったものが社会の動向において自殺のベクトル向かうとどうなるかといえば、カルトの勃興だとかネットを媒介にした集団自殺という感じで現れるのでしょうか。


右傾化だとか国粋主義というのはしょせんは根っこの弱い愚弄な人間たちの個々のエゴが生にしがみつく形で巨大なムラで人を束ねるようなものです。わたしたちがありきたりに昔から目撃してきたファシズムでしかない。ところが自殺というのは生へのしがみつきを嘲笑うかのように「いち抜けた」的に社会のゲームというか劇場というかそういう枠組み自体をすっぽかしてどこにもいなくなるわけですから、生きたい人間にとってはこれは自分たちの生きるための泥試合に更に泥をぶつけられるような屈辱であります。一人や二人の人間が死んだぐらいでは社会的淘汰でしかないのですが、これがカルトやネットを媒介にして集団自殺という形をとると、これは生きる側の人間のモチベーションをずたずたにする立派な負のアナーキーな破壊活動ですよね。しかし個々の自殺とはまた違った意味合いを持つネット集団自殺というのは、いくらアナーキーであれ、アジテーションみたく自殺を演出し「普通」に生きる人々に対し何らかの強迫観念を植え付けることで自殺を目的化してると、これはもう立派なファシズムだと言わざるをえないわけです。


映画「自殺サークル」はいろんな意味で、見た後に、実に消化不良と不安に襲われる映画でした。


電車のホームで女子高生数十人が一斉にダイビングして集団自殺と言う事件に端を発し、映画全編謎の自殺事件が相次ぐのですが、結局最後まで事件の真相も何もかも明かされずに終わります。明かされないまでならまだしも、事件の黒幕みたいなカルト集団が現れたり、事件に「モーニング娘。」みたいなロリアイドルの関与を匂わせたり(わたしはもともと嫌いだった「モーニング娘。」がこの映画を見て嫌いが生理的嫌悪に変わった)、すかんちの元ボーカルのROLLYがチャールズ・マンソンみたいなことしてたり、事件のつながりめいたものをいろいろ提示するのですが、すべて真相とは関連のない事柄として不発に終わる。終わってみれば、そうした様々なアイテムみたいなのが現代の諸相の特異性みたいなのをグロテスクに露出させている、なんともいえない不快感だけが残るんですね。この映画は自殺念慮がある人はあまり見ないほうがいいと思います。安易な解釈を許さない点において「バトルロワイヤル」なんかより潜在的に社会的影響力が強いんじゃないでしょうか(それゆえにマイナー映画なんですけど)。そういう意味で傑作でしょう。


作品として決して救いようのない駄作ではないです。監督は「観客に露悪的な不快感をもよおすようなものが作りたかった」云々みたいなことを述べておりますが、かなり成功してますね。真相探しではなく「藪の中」の薄気味悪さの表現が目的なのでしょう。


特別に感じ入ったのは石橋遼の自殺シーン。カルト集団のメンバーみたいな子供と電話で話して発作的に拳銃をドタマにぶっ放すのですが、この電話の内容がこの映画に描かれた、通常の自殺パターンとは異なる自殺心理を非常に饒舌に説明してるように思いました。わたしの解釈ではカルトは日常生活における関係性の不在について徹底的に挑発するわけです。他者と自分との関係性、更には自分が「自分」に関係する=主体的に自分を生きられてるかについての自信のなさに揺さぶりをかけるわけです(「あなたはあなたの関係者ですか」という電話の台詞が戦慄的・・・)。そして自殺した後の自分自身や他者との関係性の永続みたいなことについて語って、自殺を誘発させるわけです。倒錯した論理ではありますが、よほど関係性の概念について強固な信念でも持っていないと、石橋遼でなくてもこめかみぶち抜きそうですね。「ここに向かって飛べ」みたいなプラカードを持った女の子が路上にたっていたり、この映画の世界では盛んに自殺を誘発します(映画がじゃないです、作品の中の世界が)。自殺ってのは非常に個人的でデリケートなものだと思うのですが、この映画ではファッショの運動みたいに和気藹々と、または追い詰められた集団自決のように、みんながわけもなく、個の論理とは関係ないところで死んでいくのです(冒頭の女子高生らによる電車ホームに集団ダイヴするのが露骨にメタファーです)。関係性の不在がまるで自殺というイデオロギーに補完されたみたいに自殺が位置付けられているわけですね。


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「普通の感性」が「普通」の顔をした「異常」に包囲された日常


昨今のネットがらみの集団自殺のトピックに触れるたびに、この映画を思い出します。わたしなんかはものすごくエゴが強い人間なもので、芥川龍之介みたいな自殺にどちらかというと魅力を感じますが、芥川の自殺は自殺を対象化して語り終えて死んでいるあたりがエキセントリックです。翻って、この映画に繰り返される自殺の凡庸さ、生きてる人間への面当てみたいに自殺が茶化されるところの卑屈さの平凡さ。自殺がなにか社会に一発食らわせる自爆テロのように物事を強引に揺らすための暴力装置というか、日常の営みの永続性を梯子崩しのように否定しようとするエゴイスティックな手段でしかありえないんですね。明らかにうつ病によるものだとか、リストラされて苦に病んで、みたいな動機に基づかない、こういう自殺。動機が非常にグレーゾーンで結構どうでもよくて、重要なのは、自殺が物言わぬアジテーションのようにパフォーマンスされている点です。ファシズムと同じように。皆が一様に一酸化炭素中毒で練炭炊くのも非常に没我的ですしね。自殺というイデオロギーに突き動かされるように自殺がファッショの破壊行動のように人々を収束していく。お昼休みの中学生が屋上から突発的に次々と飛び降りていくシーン、その終盤なんか、このあたりのことを巧く表現していますよね。まるで戦時中のサイパン陥落時のバンザイクリフの光景はこんなのだったんじゃないか、という感じで自殺がファシズム。


この映画で描かれる自殺はまるで個々の生き方・死に方を度外視するようなファシズムです。自己の脆弱さ、関係性の不在を、ネットを媒介した国粋主義・排外主義的匿名集団の中でコソコソとした自己顕示欲を発散させながら克服しようとするネット右翼のファシズムと表裏一体の逆ベクトルなのです。思えばネットを媒介した集団自殺だって、脆弱なくせに顕示欲旺盛な自己が「一人で死ぬ」という社会淘汰的な結末に耐えられないからこそ、ネットという関係性をテコにして結集して、お決まりどうりの練炭使って、スキャンダラスに社会に一撃!!みたいに社会に対するドグマチックな表現なんですね。ただ、そこに自己が死んでる。脆弱な自己が寄り集まって集団をテコにして歪んだ形なりに自己を実現しようとする。その辺は、結局ネット右翼の心理と同じで、平凡でありきたりなのです。翻って言えば、オウムのようなカルト集団の病理とネット右翼やネット集団自殺の病理はよく似た傾向を孕んでいるように思えます。ただ、国だとか集団からの排外主義で仮想的に結束することのステレオタイプな自己放棄・生への執着を思えば、カルトや集団自殺は社会の何たるかにすら関心もなく「いち抜け」て、自殺というイデオロギーでより凄惨に、より嘲笑的に、自己どころか生きることすら放棄して、生きる側の者のこざかしい結束すら見下すように消えていくのですから、より過激なファシズムといえるかもしれません。


この映画は不安に囚われやすい人は見ないほうがいいです。死語ですが、「実存的な不安」にとりつかれている精神に激しく揺さぶりをかけます。でも「モーニング娘。」みたいなロリコン趣味としかいいようのないアイドルが市民権を得たりする現代のもはや「当たり前すぎる」ものとなった特異性や、チャールズ・マンソンみたいなキャラを呼び起こしたりとか、子供に率いられた不気味なカルト集団だとか、見事に露悪的なアイテムを用いることで、言いようのないわたしたちの不安を提示したことに関しては、真相の見えない結末と相まって、見所のある作品だとはいえます。この不気味さについて社会学的には拝金主義のなれの果てだとか、アノミーの拡大だとか、右傾化への面つぶしだとか、いろんな解釈を見出すことは可能です。しかし個の関係性に強い説得力を自己に持ち得ないからこそ、鉛の銃弾はあんなにも突発的に石橋遼を殺したといえるのではないかと思われます。


関係性の荒廃というあまりに殺伐とした風景が個を脅かしている。社会に対して右だとか左だとかに振幅して、いびつな仮想空間だとか、躁状態に狂ったメディアに自己を同一化させて「反日」を叩いたり、「JR」をいじめたり、もしくはその反対のスタンスで顕示欲を満たせるうちは健常なのです。そういった喧騒から遠いところで、与えられるままに運命を受容し、個の生き方を貫徹させようとする素朴さの平和を許さないとばかりに、個をとりまく関係性が脆くズタズタに切り刻まれていく。個が包囲されている。当たり前に生きていくことすら強固な信念を必要とさせられたり、「普通の感性」が意識的な努力によって模索されなければ「普通」な顔をした「異常」に足元を掬われるアヴノーマルさ加減こそが、わたしたちをとりまく状況の馬鹿馬鹿しさであり、生きづらさ、死にづらさであるような気がします。



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自殺サークル自殺サークル
(2002/07/12)
石橋凌永瀬正敏



腹腹時計


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腹腹時計


1999年 日本映画
監督・脚本:渡辺文樹
出演:渡辺文樹


渡辺文樹-Wikipedia




昔ちょうど田中真紀子の親父が総理大臣をしていた昭和の時代に、戦後唯一天皇暗殺を計画したアナキストグループが存在した。それが東アジア反日武装戦線「狼」。「虹作戦」と称し、彼らは葉山の御用邸から帰京する天皇の御用列車を鉄橋上で爆破しようとしたが、爆弾こそ製造したもののあともう少しというところで爆弾のセットに失敗。「狼」は失敗に終わった爆弾を今度は「ダイヤモンド作戦」と名づけて、戦時中軍需産業の分野で日本軍に積極的に協力した企業、三菱重工を狙う。東京丸の内支店に仕掛けられたその爆弾は今度は爆発。300余人の死傷者を出すに到る。


ここまでが実在の戦後史の話だが、映画『腹腹時計』ではその失敗に終わった天皇暗殺テロを「狼」に変わって実行しようとする男が主人公の架空の社会派ドラマをでっち上げようとする。ちなみに「腹腹時計」とは実在した過激派セクトである「狼」が爆弾逃走の方法論や意義、それを実行するゲリラの地下生活の手段について説いたマニュアル本で、実際に自費出版・作者未詳で一部に出回ったものである。(詳細は書評で)。


で、この映画『腹腹時計』。まず自主映画である。ということは16ミリ作品であり、大学生の映研の作品がちょろっと昇格したレベルである。映像のクオリティーは度外視しても、音声が非常に聞き取りにくい。はっきり言ってセリフの聞き取り不可能である。代わりに字幕が流れるのだが、これが英語。海外公開用のプリントのため、と説明されてるが非常に疑わしい。キャストは全て素人。美術全般は非常に貧しい。したがってロケが多いが、無断撮影のオンパレード。アクションシーンが多いが、ちゃちの一言に尽きる。


それでもドラマの設定はそれなりに捻りもありそうなことが、根性で見続けているとそれなりに分ってくる。戦前の朝鮮植民地化の問題に踏み込んでテロルのドラマを膨らませようとしているのは分かる。アナーキーでシリアスな反体制的社会派シネマを標榜していることは伝わってくる。実際、某「作る会」の会長の血圧を上昇させるくらいの過激な非国民的描写が連発する。なにせ腐っても「天皇暗殺」映画であるのだから。


監督の渡辺文樹は80年代から一貫して地方在住でアマチュア畑で自主映画を製作し、通常の配給システムから除外されたところで全国に及ぶ自主上映会を敢行し、そのドキュメンタリー的手法によるセンセーショナルな表現から一定の評価を勝ち得てきた。私ドキュメンタリー的な初期の作品群をのぞけば、ほとんどが原発問題や日本人の封建的体質を告発した反体制的内容が多い。しかもゲリラ的な撮影でノンアポで被写体に迫ったり、実際の殺人事件に触れて「真犯人」をでっち上げて(と言っても作り手は確信しているのだが)名指ししたり、挙句の果てはアクション場面用の爆弾作り(通常の映画撮影用のウソ爆弾ではなくモノホンの)をしたり墓の盗掘までやってのける。表現者としてのスタンスが常に露骨に攻撃的で対象を挑発する。


自主上映会の敢行も特殊である。ポスター張り以外の宣伝活動を一切やらない。いつのまにか上映会場のある町の各所に張り巡られたポスターには必要な情報のクレジットが極端にカットされ、おどろおどろしい絵に「ゲロ袋持参して」「途中退場を覚悟で来て下さい」とグロテスクな何かであることのみを強く誇張する。だから映画の上映会ではなく芝居の上演と誤解して来場する人もいる。監督自らチケットを裁き、上映前に壇上であいさつ(アジ?)をぶつ。そして音声聞き取り不能のストーリーよくわからん作品上映、と到る。内容が刑法に抵触しかねないから上映を拒否されたり、裁判にかけられて永久に上映できなくなた作品もある。とかく裁判ネタには尽きることはない。そして数億円の借金を抱えながらなおショボショボ映画制作を製作し続けようとする。


アクション映画を作るために一昔前のアフガニスタンに渡り、ゲリラ兵士の訓練も受けたという渡辺文樹。知識人という言葉が死語になり、アーティストという人々が押しなべてワイドショーのコメンテーター並の愚弄と化し、保守的傾向を強める世論が再び一億総八紘一宇へリベンジかという昨今、どんなにショボくてクオリティー・ナッシングで自己破滅的に借財を背負いながらも、もはや誰もやらない「反体制」なんてことを日本共産党を数億倍出し抜く過激さでやってくれる化石的なこの人に向かって、わたしは毎夜足を向けては寝られない。


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家庭教師家庭教師
(1988/05/21)
庄田真由美 千葉文子



島国根性島国根性
(1990/09/21)
渡辺文樹

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プロフィール

hemakovich

Author:hemakovich
慢性鬱状態で活字を追うのは苦痛です。
電気ショック療法を受けたみたいに、
直前に読んだページの内容を忘れます。

思春期の衝動が、ハードロックに向かうか、
パンクに向かうかで、
人間の感性って分かれ道になるみたいですね。
自分はパンクでした。

たけしの映画より、
村川透のブルーがきれいです!
村西とおるのサイト、いいです!


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