Vich-Review

≫2004年11月

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Les rita mitsouko / Acoustiques


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Les rita mitsouko /  ”Acoustiques” / 1996

 




80年代前半からエレクトロ・ポップ(死語)で活躍していたフランスの夫婦デュオ。


UKニューウェイヴに近い音でありながらどこか変則的であり、かといってフレンチポップの影響下からは完全に脱線していてユニークな存在だった。その辺が気に入られて、ヌーヴェルヴァーグのジャン・リュック・ゴダールの映画『右側に気をつけろ』に出演したりもした。


本作は通算6枚目のアルバム。ベスト的な内容でこれまでの曲を全く新しいアイデアで焼きなおしたライヴアルバム。


タイトルどおり、エレクトロポップであったフルアルバムの楽曲をアンプラグドのギターやホーン、ストリングス、ピアノやマンドリン、アコーディオンにいたる生楽器で演奏されている。


もともとファンキーな味付けであった原曲がデジタルではなくライヴでの多彩な生楽器でよりグルーヴを高めているのは、原曲の黒人音楽に頼り切らないアイテムがもともとファンキーであるためだろう。


ヒット曲の「マルシア・ヴァイラ」も原曲を上回る劇的な構成だし、映画『ポンヌフの恋人』の主題歌「恋人たち」もアコーディオンの滑らかさが心地よい。ラストを飾る「セ・コム・サ」のタイトな盛り上がりは秀抜。日本でもっと有名になってもいいグループである。


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アコースティックアコースティック
(1997/03/26)
レ・リタ・ミツコ

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『ねぼけ人生』 / 水木しげる


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ねぼけ人生
水木しげる
筑摩書房 1982-03






わたくし的に読んでかなり元気が出るエッセイである。


水木しげるは「ゲゲゲの鬼太郎」の生みの親である。「鬼太郎」の原作は登場人物の会話の言い回しがちょっと変である。水木しげるも変な言い回しをする人である。「僕がベビーの頃はですねー」などとお話になるが、このような言い回しはたとえ節操なき横文字好きといえども長嶋茂雄でさえしないだろう。無論カッコ悪いことはしないからである。そういう平凡な美的感性とはかなり隔たったところで水木しげる先生の価値観やセンスが息づいている。


幼少時代から片腕を南方戦線で失い、九死に一生を経て、戦後の極貧生活の中で紙芝居作者・貸し本漫画家と変遷し、雑誌連載の漫画家として大成していくまでの、いわば半世記が本書の内容である。


かなり激動の人生であるが、タイトルに見受けられるように暗い感じはしない。むしろユーモラスな趣を漂わせているのであるが、その一因が文体の独自性だと思う。そして、極貧時代に近所の墓場に行って無縁仏の墓と「交流」するのが趣味だったとか、この人の感性はかなり彼岸じみている。戦地で南方の原住民と仲良しになる話など、はじめからこの人はどこが違う場所で時代の空気を吸っていたのではないかと思わされる。


本書で唯一つ主張されていることは著者が南方での島民文化から得た、自然から恵みを得てゆったりとした時間の中で多くを望まず大らかに生きる、そのような文明観の提唱であろうか。そのようなものがこの島国で実現することは永久にありえないが、そのような価値観で世の中に向き合っていても何とか生きていけるであろうということは、著者自身の人生がその証左になっているように思う。


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ねぼけ人生 (ちくま文庫)ねぼけ人生 (ちくま文庫)
(1999/07)
水木 しげる




リトル・ブッダ


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LITTLE BUDDHA
1993年 イギリス=フランス合同製作
監督・原案:ベルナルド・ベルトルッチ
製作:ジェレミー・トーマス
脚本:マーク・ペプロー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:坂本龍一
出演:アレックス・ヴィーゼンダンガーキアヌー・リーブス ブリジット・フォンダ クリス・アイザック イン・ルオチェン


あらすじ-goo映画



イタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチによる『ラスト・エンペラー』『シェルタリング・スカイ』に続く“オリエンタル三部作”の最終章となる作品。


ベルトルッチといえば『ラストタンゴ・イン・パリ』や『暗殺のオペラ』なんかのヨーロピアンニヒリズムに溢れた作風の映画がわたしは好きだ。『シェルタリング・スカイ』で見せたどこまでも救われぬことが救いであるような実感をもたらしてくれる耽美的な作品が好きだ。本作はちょっと従来のベルトルッチ作品とは趣が違う。


ブータンに住むチベット僧侶が師の遺言に従って、師の生まれ変わりとなった子供を捜しにアメリカへ向かう。やがてシアトルに住む建築家の子供がその生まれ変わりであることを悟り、子供とその家族に歩み寄っていく。チベット僧や仏陀の一生に興味を示した子供と対照的に建築家の父親は激しく困惑する。しかし友人の不慮の死に心を傷めた建築家は息子がチベットそうの生まれ変わりであるかどうか確かめるために、ネパール、ブータンへ息子と共にその旅路に立つ。


早い話がチベット仏教の活仏思想(輪廻転生についての説)に基づいたストーリーである。同時にキアヌー・リーブス演じるシッダールタがブッダへと悟りを経てゆく過程を描く。冒頭のブータンの寺院でのシーンからして従来のベルトルッチ作品の雰囲気とは全く異なる。一言で言えばたおやかである。ニヒリズムの焦燥は消えて仏教的な全てを包括するたおやかさに満ちている。しかしアメリカのシーンに向かうとそれが次第に変わって行く。我々のよく知る生き残りのいないパワーゲームとひたすら劇場型世界に従順に心身を酷使する人々の悲喜劇の世界。簡単に言えばそういった救いのないありふれた現代の象徴的世界が救いとしてのモチーフであるチベット仏教の異世界と出会うことが主題。オリエンタル三部作に共通する「異なるものとの出会い」として、前作『シェルタリング・スカイ』でベルトルッチは異文明でのアイデンティティ喪失による絶望的結末を提示したあと、本作で異文化との遭遇による「救い」を試みたわけである。


私事だがわたしがこの映画を見たとき、わたしは精神病院の三ヶ月の入院を経た後だった。わたしが心を病むに到った原因は友人の死によるものだった。それはわたしにとって長い年月どうしても超えられない事実だったのだ。だから劇中でシアトルの建築家が友人の訃報に際して乗車中の車を橋の上で止め、車外に出て思わずぼろぼろと泣き伏すシーンは、ありふれた情景でありながらわたしもとても共感せざるを得なかった。どれだけ理知的に世界を克服しようとしても生あるものとして当たり前に超越することの出来ない人の定めが、ありふれたものでありながら人の個体を揺るがし続ける。ありふれたものがあれだけ人が生きていくうえで切実なものだと映画で感じたのは深い意味ではあの映画が初めてかもしれない。


わたしは退院後、ブータンに旅行した。『リトル・ブッダ』の冒頭とクライマックスで現れたパロ・ゾンにも足を運んだ。ベルトルッチがカメラを向けた同じ眼差しに立つことが出来た。ブータンは仏教的摂理がたおやかに浸透し21世紀の今もそこはかとなく息づく温かく優しい国である。人々は明るくみな親切だ。輪廻転生を信じ、永久の魂を信じ、一度限りかもしれない出会いを慈しむからこそ互いに親しみ、大切にしあう。そんな人々を包括するブータンの自然はサハラの鋭利な稜線とは対照的にどこまでもなだらかで穏やかである。わたしはその国を見聞きしながら、わたしのなかの心を病むような神経とは対極のたおやかさを感じた。神経をギリギリまですり減らしてゆきながら確たる哲学もなく寸借の前方の運命を日々空しく穴埋めするような世界の日常とは、あまりにもかけ離れすぎた静寂があるのだ。『リトル・ブッダ』でシアトルの家族をチベット仏教の世界へ導いてきた僧侶はブータンへの帰路についた後、静かに人生の終りを瞑想を続けながら迎えようとする。全てを受容し悟りを信じながら生を終えてゆく僧侶を見送りながら、建築家は「わたしには信じることが出来ない」と仏教的なたおやかさの中へ溶け込むことの出来ない違和感と向き合い続ける。


だからこそラストシーンはハッピーエンド的な明るさで静かに終えてゆきながらも、どこか哀しげな余韻が滲み出る。アメリカへ帰国した建築家親子はNYでボートに乗って湾内に出る。そこで逝去したチベット僧の遺骨の粉を海に少しずつ撒いて行く。亡骸を自然の中へ還すために。そうしてエンドロールが流れ始め、坂本龍一のエンドスコアが静かに響き渡る。海から映し出したNYの高層ビルが索漠たる救いなき不毛に映るようにそのスコアは悲壮で儚げである。揺れるボートの振幅が、ついにどこまで行きながらも救いと同一化できない我々の定めを示しているようにエンドスコアの調べがいざなってゆく。坂本龍一のそのスコアの名が“Acceptance”(受容)である。


ある種の人々にとっては「救い」を提示されることは己の「救われなさ」と向き合う合わせ鏡なのかもしれない。坂本龍一のスコアがそれを示すかのように、フレーズが反復することなく、異なる調べを糸のように手繰り寄せながら物語的に音を紡いでいく。この頼るすべのなく反復を拒否した音の紡ぎを、「救い」に同一化できない人々の魂の漂泊であるかのように思いを馳せながら、わたしはようやくなつかしい人の生き死にに向き合い「受容」へと辿り着く。

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リトル・ブッダリトル・ブッダ
(1998/10/25)
キアヌ・リーブス



『さようなら、ギャングたち』 / 高橋源一郎


 

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さようなら、ギャングたち
高橋源一郎
講談社 1981





日本の現代文学で最初のポストモダン文学、もしくはメタ小説といえる作品である。


この作品が現れるまで、いや現れて以後も破格なナンセンス小説と揶揄されそうな形態がこの作品には濃縮して表れているが、しかし後の「惑星P-38の秘密」のようなカタログ小説と比べると遥かに物語の構造を残している。むしろ作家・高橋源一郎の原初的なエネルギーと個人的な感傷がひたむきに描かれたオーソドックスな純文学であったとさえいえると思う。


主人公が「中島みゆきソングブック(S.B)」と出会うまで、出会ってからの「詩の学校」での授業、そして突如現れた「ギャング」たち、ギャングたちと元ギャングであったS.B、主人公の崩壊までが描かれる、シュールなストーリー展開。しかしその内容は多種多様な文献の引用や漫画のコマの借用、パロディであり、批評であったりする。


作品自体が小説の形を借りながら現代詩に対する批評であったりもする。脱小説的な試みをギリギリまで試しながら小説としての構造をかろうじて残している。主体性や象徴的表現を柱として発達してきた近代文学への批評性としての作品を小説の形で行っている。まさにメタ小説なわけである。


作品に描かれた崩壊後のような廃墟を思わせる世界。ここに作者が体験した学生運動の終焉や、連合赤軍のあさま山荘事件に象徴されるノンセクトラジカルの幻の消滅、といったコンテクストを読み取ることは可能だ。実際作者自ら「60年代三部作」と題して、この後「虹の彼方に」「ジョン・レノン対火星人」といった作品を続けてもいる。


しかしこの「さようなら、ギャングたち」を絶えず覆い尽くす空気は、そういった脈絡にとどめ置くことの出来ない、詩的リリシズムである。優れた散文の放つ圧倒された世界の表現である。


この作品を読み解くことと感じ取ること。二つの可能な選択肢の中で読者としてのスタンスさえもが作品性そのものから問い質されざるを得ない。この作品の今もって通用する先鋭性はその脱構築的なラジカリズムが小説の構造にとどまらず、作品と読者との関係性をもこれまでの通念から更新しようとしているのである。




さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)
(1997/04)
高橋 源一郎



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