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惑星ソラリス


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惑星ソラリス


“СОЛЯРИС”“SOLARIS”
1972年 旧ソ連映画
監督・脚本:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
出演:ナタリア・ボンダルチュク ドナタス・ボナタニス ユーリー・ヤルヴェト


あらすじ-goo映画




この映画を中学で初めて見たときは、あまりの長さに寝てしまった。高校のとき見たときはよく分からないまま見終えた気がする。大学に入ってそれなりに生きることとかについて稚拙に考え始めた頃にもう一度見て、ようやくこの映画の示すところを感じ取った気がする。


タイトルの示すように未来が舞台のSF映画。惑星ソラリスに静止する宇宙ステーションで主人公の友人が命を絶った。発狂者や自殺者が続出しているステーションへ派遣された主人公は、そこでひどく自閉的な状態に陥ったクルーたちの姿を目にする。やがてその主人公にも異変が訪れる。数年前に自殺したはずの妻がステーションに現れるのだ。動揺した主人公はその妻をロケットに一人搭乗させ宇宙に投棄する。しかし再び自殺したはずの妻は彼のもとに現れる。クルーの科学者たちの導き出した仮説によれば、どうやら惑星ソラリスの地表を覆う「海」が高度な知性を持ち、何らかの意思をもって、ステーションのクルーの大脳を覗き、そのものが個的に秘めている内容を物質化しているということらしい。したがってステーションに現れた妻は人間ではなく、再生可能な体を持った生命体であることが分かる。クルーの科学者たちはこの現象を終わらせるために、ソラリスの「海」へ放射線を投射することを提案する。しかし主人公はその提案に対して激しい葛藤を覚える。なぜなら彼はその本当の妻ではない「妻」をいつしか愛し始めていた。


原作はポーランドの現代SF作家スタニスワフ・レム。監督は旧ソ連で作品に対して反体制的作風と糾弾され続け、ついには西側へ亡命してしまったアンドレイ・タルコフスキー。レムの原作は不可知論の命題をひたすら追い続け、タルコフスキーの映画は宗教性の視座を取り入れている。


この物語は未知との遭遇の話である。もっと詳細に言えば近代知性に啓蒙された合理主義に基づく人類が、その合理主義によって全く解釈することが出来ず、相互交流の糸口も見出せない異世界の現象と出会ったとき、人類が何を為し得るのかを追及した作品である。したがってこれは一般に誤解されやすい愛とか良心についての物語ではない。主人公が遭遇したのが亡き妻であったのは伏線であって、他のクルーのように感情移入不可能な対象と遭遇したケースを考えれば、愛というのはこのドラマを受け手が分かりやすく解釈するために勝手に導引したがる人類の俗世的思念でしかありえない。また良心というのも同様に合理主義と同じく人類が近代知性によって啓蒙的に想像した人工物である。それが宇宙全体に同一化できる意思と考えるのは果てしない人類の傲慢である。異世界の現象として現れるソラリスの海は人類の内側に介入し、そして試金石のように個的な苦悩を現実化させる。しかしその海の知性は人類と対話する交流のすべを持たない。そもそも対話する意思がるのかどうかもわからない。そんな対話不能の中で人類はソラリスの海の送り出すいかなる意思があるのかどうかもわからないところの現象と対峙しているのだ。


唯一ついえることは、ここでは人類が遺産的に引き継いできた啓蒙思想を批評的に検討されているということであり、その啓蒙思想を絶対視するあらゆる非哲学的な論証や権威的哲学の思弁に対して圧倒的にアンチを唱えている点である。このあたりが唯物論を標榜するマルクス主義、ソビエト当局には許しがたい背信行為であっただろう。しかし、タルコフスキーはこのレムの原作を取り扱うに到って、唯物論を攻撃する意思はもちろんなかったはずで、彼は哲学的な立場でこの物語に取り組むレムの姿勢とも異なるスタンスを取った。それがロシア正教に影響を受けて育ったタルコフスキーの宗教性の視座であったのだ。原作にはない地球のシーンにおける美しい自然の中より始まる冒頭や回想的に挿入される子供時代の再現には、タルコフスキーの原体験への帰依や水藻や天気雨に象徴されるアニミズム的情景に対する憧憬がおのずから伺える。そして妻とクルーたちとの葛藤の狭間でトルストイに対して言及したり、仲間の自殺を「彼自身が感じた恥」と解釈して錯乱してゆくシーン、見事にタルコフスキーの宗教的な傾斜とそこからレムの原作に対する解答を導こうとする姿勢を見つけることが出来る。啓蒙思想に対して同じく啓蒙の産物である哲学的視点にはどうしても限界があり、結果は堂堂巡りでしかない。だから不可知論であるのだが、タルコフスキーはその段階に立ち止まり続けることに甘んじることが出来ない。彼は近代啓蒙思想が成立するはるか以前の、まだ人間と自然との教会が未分化であったころの人々の視野に立ち戻って、自然の織り成す偶然の脅威に畏敬と寛容の思念で異なるものと分かちえようとした人間の原初的姿に回帰しようとする。ソラリスの海を神と人間を分かつ神秘と未知の関係に習って、理解し得ないものを存在しないものと裁断するのではなく、理解し得ないものをより遥かな未知として存在を受容する。タルコフスキーのスタンスはこのようにわたしには映る訳である。彼の映画が近年ハリウッドにリメイクされたが、哲学のないアメリカには実用哲学としてプラグマティックにストーリーを弄び、自身のテクノロジーを惰性的に投射することしか出来ない。スティーブン・ソダーバーグ作品が『ソラリス』をロマンスとしてしか解釈できないのは彼らの怠惰ではなく国民的な限界としかいえない。


計らずもソビエト当局の逆鱗に触れることになり、結果的に西側諸国の無神論的な汎テクノロジーへの埋没をも警鐘を与えるような作風の映画を撮り続け亡命先で客死したタルコフスキー。『ソラリス』に流れるバッハのコラール・プレリュードはまるで彼が見出してしまった絶望的な現代の諸相への、タルコフスキー自身の深く線の細い苦悩の旋律のように聞こえる。第三次世界大戦勃発時の自己犠牲的な祈りを主題に据えた『サクリファイス』は『ソラリス』の後に造られることになる。


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惑星ソラリス惑星ソラリス
(2002/12/16)
ナタリア・ボンダルチュク



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