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『1984年』 / ジョージ・オーウェル (前編)


cat1984.jpg



NINETEEN EIGHTY-FOUR
George Orwell
1949. First edition.






憎悪し続けるわたしたちの側がプロパガンダを創出するパラドックス


ジョージ・オーウェル『1984年』ほど右からも左からも引用されやすい文献はない。

この間、朝日新聞のことを作中に出てくる「真理省」だと揶揄するブログを拝見して苦笑した。

『1984年』がプロパガンダに援用されることは今に始まったことではない。ハヤカワ文庫の訳者が引用しているようにニューヨークの新聞売りは「この小説を読めばボルシェビキの頭上に原爆を落とさなければならないのか分かる」と初版当時の冷戦時代から放言していたのだから。

きっとその新聞売りも前述のブロガーも『1984年』を完読したことがなくて、オーウェルの他著の『ウィガン波止場への道』とか、エッセイ『絞死刑』は存在すら知らないかもしれない。

朝日が「真理省」ならNHKも「真理省」であり、「オブライエン」は安倍中川で、「ビッグブラザー」は昭和天皇の亡霊といったところか。

憎悪週間」に政治的援用をされること自体が「ニュースピーク」の本質であり、朝日を政治的に罵倒したいためにオーウェルを引用されること自体がオーウェルの哀しみであり、『1984年』が文学として失敗作たるゆえんなのである。

その『1984年』は1984年に映画化された。映画産業に乗り出したヴァージンの制作第2弾である。ちなみに第1弾が『エレクトリック・ドリーム』というお気楽SF映画だったことを思えば、二作目にこの暗い題材を持ってくるのも意欲的だ。音楽シーンの第二次ブリティッシュ・インベンションでヴァージョンがニューウェーヴ・アーティストで稼ぎまくっていた懐かしい時代である。

主演、ウィンストン役はデヴィッド・リンチ監督『エレファント・マン』でも主役を張ったジョン・ハート

『1984年』はかのデビッド・ボウイも映画化を狙ったが、オーウェルの未亡人にあえなく断られて実現しなかった。ジョン・ハートの険しい表情の演技は近年のボウイに通じる感じがして面白い。

『1984年』は独裁国家の権力を告発した作品である、という批評では足りないと言う気がする。

正確には、独裁的な権力が永久に持続することの恐ろしさを告発した作品である。

スターリン体制が終わりベルリンの壁が崩壊したり、ヒトラーが死んで第三帝国が滅亡する、というような幕引きは『1984年』のオセアニア国では望み得ない。

『1984年』に登場する架空の仕掛け、すなわち『ニュースピーク』だとか『二重思考』、『憎悪週間』といった概念はおおよそこの世界のあらゆるリアルの諸相にリンクする。

それはなにも平壌放送だとかに限られることではなく、イラク戦争報道におけるCNNも負けず劣らず「憎悪の二分間」的にプロパガンダしてきたし、権力に都合の悪い者へ「自己責任」論をぶつけたり、「テロとの戦い」という「テロ」の語彙を無節操に拡大解釈して他のロジックを差し込めないように一語に集約させるのは「戦争は平和である/自由は屈従である」というスローガンや「新語法辞典」のやりくちに近い。

そのうち、国民総背番号制が確立されれば、容易に役所は「非実在者」を作り出して、社会保険や年金の還元を故意に不正操作する時代が来るかもしれない。

権力が無自覚なままに永続され、当たり前のことがいつしか別の当たり前に置き換えられ、社会不安が煽られ、他人同士が互いを監視しあい、置き換え可能な役割流動社会に対する従属と被承認欲求をちらつかせて、本性的な人間性を売り飛ばさせようとする。

こうやって書いていると、オーウェル的世界は現在の日本で半ば達成させられたような気がして寒々とした感覚を覚える。

オーウェルの卓見はかくも見事に後世の我々を予感している。

こうしたオーウェル的な仕掛けを創案することはともかく、一作の小説にまとめ上げる作業はオーウェル自体も大変なことだったにちがいない。

『1984年』が物語的なダイナミズムに欠けるのは、物語にとって瑣末な事柄でありながらもオーウェル的世界の悪夢を演出する画期的な仕掛けを書き込むことに、作者が没頭せざるを得なかったからに他ならない。

その『1984年』の視覚化であり、映画化であったのだ。物語の息を吹き込むことが映画『1984年』の役割であった。




MPW-19.jpg


原題:NINETEEN EIGHTY-FOUR
製作年:1984年
監督・脚本:マイケル・ラドフォード
主題歌:ユーリズミックス
出演:ジョン・ハート(ウインストン・スミス)、スザンナ・ハミルトン(ジュリア)





しかし政治的援用の手助けをさせられないために、オーウェル的世界を理解することが困難であるのと同時に、この映画もオーウェルの観念を視覚化することに腐心してほとんど空振りに終わっている。

登場する兵士はナチス、党員はクメール・ルージュといった出で立ちで、テレスクリーンに監視されるくだりをはじめ、真理省の役人である主人公ウィンストンが実在者や非実在者の情報を焼き捨てるシーンといった重要な場面までも単純に「文章のそのまんま視覚化」、説明的描写に終わってしまう。

『1984年』の世界を政治的に理解しようとすれば独裁体制に対する怒りで止まり、社会学的に理解しようとすればオーウェル的世界にリンクするリアルの諸相に対する異論反論に終わる。

架空の「オセアニア国」に対する我々の率直な感情をリアルの世界に反映しようとすれば、それは衒学的で、ファナティスティックで、アンチの怒りが突き上げてくるような、だが異論反論に終わる。その異論反論もまた限定的にプロパガンダ的な色彩を帯びる。我々自身が「憎悪の二分間」を演出する滑稽な姿を露出する。

怒り・義憤といった感情は当たり前のようでありながら、オーウェル的世界の「憎悪の二分間」に通じてしまう、なんともパラドックスな様相を招いてしまう限り、怒りや義憤は負の感情でしかない。

しかし忘れてはならないのは、『1984年』の世界は怒りや義憤といった自己の感情でさえ社会に統治され、もはやあらゆる感情や感性の自発性さえもが失われているという、ぎりぎりの人間性までもが永続する権力に被承認欲求を乞い、屈従するところまで深く病んでいるのを忘れてはならない。

オーウェル的世界のリアルの諸相から絶対的に虐げられ、屈従される側である我々の側が、自ら他者への憎悪と不安の腐臭を演出する主体となり、より弱いものを叩く。

あるときは、北朝鮮の民衆を、在日コリアンを、クルド人難民を、イラクの人質を、被差別部落出身者を、マイノリティセクシュアルを、生活保護受給者を、精神障害者を、すぐ隣の男を、そして女を。

『1984年』を創作するためにオーウェルがその仕掛けを細かく描きこむために払った同じ労苦を、われわれはプロパガンダ援用として、生理的憎悪として、そして反動勢力に対する異議申し立てという形に応用して、すべてをオーウェル的世界の瑣末な諸相の表面を空すべりさせ、すべての言辞が何者かに対する攻撃の言辞という負の消費に費やしてしまう。

『1984年』を語ることそれ自体がすでにプロパガンダと相通ずる危険性、ウヨクだ、サヨクだ、という不毛なウンコの投げ合いで憎しみに転じる危険性をはらんでいるのである。




本当のオーウェル的世界では、もはや、異論反論どころか、生理的憎悪をも含めて全ての人間性が死んでいるのである。

物語の結末、主人公のウィンストンが独裁者「偉大な兄弟」への愛に呼応するブラックな終わり方が全て示している。禁止された日記を書き始めたウィンストンの主体性は「偉大な兄弟」への被承認欲求の前に屈服する。

我々の義憤が他者への憎悪の入り混じったプロパガンダに転化するパラドックスを起こす前に、わたしたちは今一度、オーウェル的世界の瑣末な表面から離れなければならない。

自らが「オセアニア国」で生きるウィンストンやジュリアそのものであることの意識からはじめなければならない。

立ち戻らなければ・・・・・・人間性のインポテンツとなって、(国家や)メディアに提供されるセックスや恋愛のイメージやモラルの奴隷(お馬鹿な消費者)になって、テレスクリーン(ネットorメディア)という全体への被承認欲求に媚びる信者になって、他者の不安に怯え、弱者への虐待に駆り立てられ、もはや自分で考えることも、感じることも、自ら人間であることを失い、「偉大な兄弟」に「生ける屍」と呼ばれるような、・・・・・・そんな自分たちへ、悲惨で滑稽で哀しみのオーウェル的住人、そのものであることへ。




NO4-1.jpg






1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)
(1972/02)
ジョージ・オーウェル新庄 哲夫



オーウェルにおける革命権力と共産党
オーウェルの思想の政治的解釈

絶望書店-オーウェル!!
「1984年」初版当時に描かれた漫画

「華氏911」中の「1984年」引用
マイケル・ムーアの引用と挿入自体は見事に心憎い演出でした。





【『1984年』 / ジョージ・オーウェル (中編)】へ  >>


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