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『1984年』 / ジョージ・オーウェル (完結編) 


ありふれた「屈従する自由」、普遍的な「偉大なる兄弟」




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ウィンストン 「自白は裏切行為じゃない。君が何をしようと、そいつは問題ではない。ただ感情だけが大切なんだ。もし彼らが僕に君への愛情を失わせたら―それこそ本当の裏切りといえる」


ジューリア 「そんなことができるはずがないわ。それだけが彼らにできない唯一つのことよ。彼らがどんなことだって-ありもしないことまでも、喋らせることはできるでしょう。だけど、ああなたにそれを信じさせることだけは不可能だわ。あなたの心の中まで入り込むわけにはいかないもの」





『1984年』に関するネット内の記述をいろいろ見ていくと、この作品とV・E・フランクル『夜と霧』の対照的な内容について感想を述べたページに出会った。同じ極限状況の世界を描きながら『夜と霧』では人間性への信頼を謳い、『1984年』は人間性の全体主義への敗北で終わる。わたしはフランクルの著書は学生時代のゼミでよく読んだ縁もあって、この指摘に興味を覚えた。

フランクルは人間はどんなにその人生からあらゆる自由が奪われ拘束されても、自らの運命に対して「どのような態度をとるか」という自由が残されていると語った。『1984年』ではその自由さえも残してはもらえないのだ。なぜならこの作品で描かれる権力は、反逆する人間を捕まえてただ殺すという安易なコースを選ばない。反逆者が自分が反逆したことについて心の底から愚かしいと思い、権力者を愛するようにまでなった時点でようやくその人間は歴史上から抹殺されるのである。

非常に周到で徹底されている手段だ。ただ反逆して処刑されるなら反逆者は殉教者として記憶される。だが「殉教者を残さない」こと、反逆者の内面までもすっかり反逆者自身に転向させることで、反逆の事実自体をすっかり抹殺させてしまうこと、そうすることですべての事実をあったことにもなかったことにもしてしまうこと、すべての知識と歴史を完全に支配してしまうことを可能にするのである。殉教者の存在を知らなければ殉教ということさえ存在しなくなる。翻って、もはや敵国という存在が存在しなくても敢えて存在することにしておけば、戦争は継続され、人々の不安は継続され、権力は存続するわけである。


オブライエン 「ウィンストン、訓練された精神の持主だけが現実を認識することができるのだよ。君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。(中略)・・・しかしはっきりいって置くが、ウィンストン、現実というのは外在的なものではないのだよ。現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、それ以外のところでは見つからないのだ。それは過ちを犯しがちな、ともかくやがては消え失せるような人間の頭の中には存在しないのだよ。集団主義体制の下、不滅である党の精神の内部にしか存在し得ないのだ。党が真実だと主張するものは何であれ、絶対に真実なのだ」


オブライエン 「われわれは精神を支配しているからこそ物質も支配しているのだ。現実というのは頭蓋骨の内部にしか存在しないのだよ。君も段々に分って来るさ、ウィンストン。われわれに出来ないことは何一つない。姿を隠すこと、空中を浮遊すること ― 何だって出来る」



わたしたちは通常、自分の目の前にいる人間が空中浮遊するなどとは信じない。それは空中浮遊を見たことがないわけである以前に、「万有引力の法則」を教育によってインプットされてるからである。

しかし外側からの圧力にしろ、わたしたちが自律的に「万有引力の法則」をわたしたちの頭から喪失させて、「目前の人間は空中浮遊するかもしれない」という原則が代わりに入れ替わったらどうだろう? もしくは「目前の人間は空中浮遊が可能であるし、可能でなくても可能だということができる」という論理がわたしたちの頭の認識を支配すれば、わたしたちの目前にある世界は客観的な諸事実を全て変更可能になるのではないか? そんなことは絶対に不可能だと言い切れるほど、わたしたちは自分自身で世界を説明し尽くせる自信を持っているだろうか。「南京大虐殺はなかった」ということを全く主体的に信じられる人間がこの日本に現れて、まだ戦後60年である。「南京大虐殺」という記述が全ての教科書から消えて20年も経てば、もしくは「南京」という言葉が消え、「大虐殺」という言葉が消され、言語も知識も消失せしめられた世界(これこそがオセアニア国のニュースピークである)「南京」も「大虐殺」も存在しない外部の客観性の前に「南京大虐殺は存在した」と信じる主体的な自由を保持する自信は「盲信」とか「狂人」のレッテルからの自由が必要になるのではないか。

ウィンストンにとって権力から抹殺される運命でありながらもその運命に対して「どのような態度をとるか」という自由は、それはどのように拷問されて全ての自白を行っても処刑される寸前まで「ジュリアを愛しつづけている」という内面の自由だった。もしくはそのような人間性をもち続ける人間であり続ける自由と自らへの誇りを持って死ぬことだった。

しかし彼は「101号室」の拷問において、それまでどんな拷問を受けても(まして拷問を中断されて健康を回復した時点で101号室の拷問は物語の中で展開される)その最後の自由を失うまいと思っていた自分を、無残にも完全に放棄するのである。彼がこの世で最も嫌悪しその存在を悪夢の中にさえ「自らを欺く」ように葬り去ろうとしたネズミを使った拷問だった。


ウィンストン「ジューリアにやってくれ!ジューリアにやってくれ!自分じゃない!ジューリアにだ!彼女をどんな目に合わせても構わない。顔を八つ裂きにしたっていい、骨だけにしたっていい。しかし、俺にじゃない!ジューリアにだ!自分じゃない!」



拷問を終えたウィンストンは解放される。普通の市民に戻る。仕事すら与えられている。彼はもはや監視すら恐れなくなってしまった。そしてジュリアに再会する。そしてもはや以前のようにジュリアを愛せなくなった自分と、全く自分と同じように自分を裏切ったもはや以前のジュリアではないジュリアを見つける。

ジュリアもやはり「101号室」でのウィンストンと同じことを告げる。「とても耐えられない、夢にも考えられないようなこと」によって、「自分にじゃない、誰かにして」と口走った事実を。ジュリアは「誰か」と表現し、それが「ウィンストン」であるとは告げていない。しかしウィンストンはその「誰か」が自分であることを了解しているようだ。ジュリアにはどのような拷問がされたのか。物語はジュリアにそれをウィンストンに告白させないし、ウィンストンもそれは同じだ。彼らは互いに共有できない何かによってお互いを裏切った。彼らが共有できるのは拷問によって「誰か」を裏切ったという自他への軽蔑のみである。その拷問のときに確実に自分がかつて信じていた自分を放棄していたという、もはや内側から崩壊した空っぽの「生ける屍」である最も確実な事実への畏怖と敗北感である。

ジュリアを愛し続けながら死ぬという最後の自由のあっけない脆さの前に、ウィンストンは自分の運命を前にして「どのような態度をとるか」という自由を得ることなく、「どのような態度をとるか」という自分を見たに過ぎない。そしてそのことはもはやジュリアを愛する自分も、そんな自分を愛する自分すら卑小にしか感じられない。彼は自分を信じることのみで人間であリ続けるということが出来なくなる。もはや自分の過去すらも「偽りの記憶」になる。母の思い出も「偽り」ではないと思えない自分に気づく。

彼は洗脳されたのではない。自己同一性を失ったのではない。自己同一性を信頼できなくなった自分を事実として認めたのだ。もっと言えば、「自由は屈従である」という権力の主張の前で、「どのような態度をとるか」という残された最後の自由の選択において、「屈従は自由である」という運命を選択した自分を知る。オブライエンが拷問の時に自分に告げた言葉そのものを受け入れた自分を。


「彼らは現に心の中にまで入り込んできた」



かくして物語のラストに彼は反逆しようとした権力の頂点である「偉大なる兄弟」を愛するようになる。

この「偉大なる兄弟」は「金日成」とか「スターリン」にも置き換え可能だが、「イエス」でも「マホメット」でも可能であるような気がする。誤解を恐れずに言えば、それは「ガンジー」でも「ヨハネ・パウロ2世」でも「ジョン・レノン」でも「アインシュタイン」でも「尊師」でも「長嶋茂雄」でも構わない。いや、「万有引力の法則」だとか「唯物論」だとか「平和主義」でも構わない。実在・非実在、人物・観念の区別なく置き換え可能である。もしかしたら「わたしの恋人」だとか「尊敬する父母」とかでもいいかもしれない。「ジョージ・オーウェル」でももちろん構わない。

「屈従する自由」を感受した、か弱きおのれの「人間性」の醜悪を知った、自分とは言えなくなった自分にとって、手の届くところにあってそっと被承認欲求を満たしてくれるものであれば「偉大なる兄弟」は何であってもいいのだ。なぜならこれは洗脳ではない。

外在する自然や、事実や法則、歴史、目前の世界のあらゆる物事が頭を通過するとき、客観性という自分の頭の中を自分で疑い、自分で現実を、真実を見通すことが出来ない、そういう自分を自分の意思によって受け入れた人には「偉大なる兄弟」を愛することでしか、もはや生きられない。

ラストのウィンストンは「生ける屍」だろうか。もはや「人間性」を失った「人間」ではない何かだろうか。だが、わたしには限りなく人間らしい人間という印象を受ける。「偉大なる兄弟」なくして生きられる人間をわたしは見たことがないかもしれないから。「偉大なる兄弟」が全体にとって承認されたものか、否定されるべきものか、いずれにしろ「偉大なる兄弟」をわたしたちが望んで欲するとき、もはやその時点でわたしの目前に「オセアニア国」によく似た全体主義が見えてくる。もちろんそれは『1984年』というフィルター越しという限定付きで。


「生い茂る栗の木の下で/俺はお前を売り、お前は俺を売った」






1984-movie-aa2.jpg







ジョージ・オーウェルというひと


『1984年』はよくデストピア小説と言われるが、わたしは正確にはそうは思えない。

架空の「オセアニア国」や「テレスクリーン」、「ニュースピーク」などという設定の可能性を描きながらも、そういったオーウェル的世界の一端は現実の世界に達成されているような気がする。そして主役ウィンストンが辿る敗北への心理過程は、その設定さえ違えば、よくある人生における自己の挫折の本当の意味での恐怖を普遍的に描いてる気がするし、ウィンストンのような敗北的な精神の死を迎える人間はいつの時代にもどこかに必ずいるのではないかと思えるのである。

そして、これほど冷徹で計算された管理社会像のプロットであってもシニカルではなく作者の強烈な主張を感じさせたり、これほど読み終えるのが苦しい過酷で恐ろしい物語でも最後まで読ませようとするほどの温かみや誠実さを備えているのも、ひとえにオーウェルが描いたからだと思う。オーウェルという作者が「オセアニア国」への憤りやウィンストンたちへの哀しみという感情と格闘し抑制しながらひたすら描写を重ねてゆく、そういう書き手が目前で時間を超えてリアルタイムで執筆時の温度を伝えてくるような、そんな肌の温かみがわたしには感じられる。

冗漫な箇所も目立ち、決して小説として成功とはいえない『1984年』がわたしの中で傑作足るのは、オーウェルという人間の面白さと、彼の写実的で直截な、ルポルタージュ的な鋭利さと文学的虚飾の乏しいストイックな不器用さを併せ持った文章の特徴であるからかもしれない。


「“やむをえぬ殺害”という言葉に注目してほしい。こんな言葉が書けるのは、殺害がせいぜい言葉でしかない人間だけである」


「ユダヤ人差別について検討しようとするのなら、『なぜあきらかに非合理なこんな信念が世間の人々の心をとらえるのだろう?』とは考えず、当然、『なぜユダヤ人差別思想はわたしの心をとらえるのだろう?』という疑問から出発しなければならないわけである」



マイケル・ムーアの映画での引用など見ると、オーウェルはアフォリズムの天才のように感じられるが、実際の彼は小説家でもあるがエッセイや評論こそが本領のような人で、具体的な対象について極めて詳細にデッサンを重ねるように説明文を繰り出すような人だとわたしは思う。そして、決して、good(良い)とかungood(良くない)で物事を裁断しない人だ。そしてごく当たり前のことを突き刺すようにスピードボールで投げ返してくるような人。当たり前に過ぎるのに嗅覚が良すぎて結果的に鋭く噛み付いてしまったような余韻を残す人。


「わたしの最大の目標は政治的な文章を芸術に高めることであった。わたしの出発点は、つねに一種の党派性、つまり不正に対する嗅覚である」


「暴露したい嘘があるから、世の注意を促したい事実があるから、書くのであって、最大の関心事は耳を貸してもらうことである」



彼は大学に行かずにミャンマーで警察官になって植民地支配の手先になったり、ホームレスになったり、スペインでファシズムと戦ったり、第二次世界大戦中に国営放送で働いたり、短い人生で激しくその行動の振幅が広かった。その人生と同じく、書く文章も実益や具体的な内容の味気なさと、ラジカルな言説と、デジカメの時代に水彩画を描くような装飾をするような、ストイックで、立ち居地が不安定で、右からも左からも石を投げられそうな、ストイックで不器用な物書きだったと思う。誤解も受けやすかっただろう。

しかし党派性を嫌い、正統を疑う彼は、だからこそ対象を語るときに安易に物事を裁いていない。そして必要以上に多くの言葉を使い、比喩を並べ、説明に説明を重ね、平明で分かりやすい言葉を丁寧に使う。彼のエッセイはジャーナリスティックと言われる文章の典型だが、わたしは彼のような文章を新聞や雑誌で読んだことがない。それは自分の論悦に酔うような自己耽溺がないからだろう。気の利いたジョークが笑えないからだろう。説明が乾いているのに、本気で絶望するオーウェルが見えたりする、矛盾した現象が起こっているからだろう。


『1984年』で語られていることは、哲学者のミシェル・フーコーが指摘した内容(『監視と処罰』やその他)と相似点が多い。オーウェルが政治的な目的で文章を書くことに「わたしの生きているような時代に」そういうことをしないのは「ナンセンスだ」などというような人間でなければ、フーコーのように形而上学寄りな文章をつらつら書いていたかもしれない。だがそうではなかったから60年代の闘士の名残を残したマイケル・ムーアや勘違いブロガーに引用されたりするのだろう。

オーウェル評論集』の解説で読んだが、死の直前のオーウェルは自分と政治的立場の違うイーヴリン・ウォー(わたしは知らないが検索すればゲイ作家として紹介されていた・・・)を評価する文章を書くつもりだったという。そのウォーもまた保留を残しながらもオーウェルの作品を評価しているという。「二重思考」だとか「ニュースピーク」という前衛的な発想を生みながら、「よき昔」「自然」「友情」といった懐古的なものを愛する人であった。要するに彼の政治性というのはある一定のセクトコミュニティからそれ以外の外部を排撃するような卑小なものではなく、すべての「正統」の「不正」を立場の左右を問わず解き明かす作業のことであったのだろう。

植民地の警察官をやったり、ホームレスを経験した経歴がオーウェルのノンセクトな立ち位置を豊富にしたのかもしれない。そして彼は「政治的な文章」を書きながら、いつも左右のイデオロギーから遠い人だったと思う。むしろ、「信頼」とか「人間性」というものに依拠し固執続ける。さもすれば古いタイプと揶揄されそうだが、そういうオーウェルの前衛の激しさと愛情の豊かさが両極に対峙しながら彼自身の中で振幅の揺れを交錯し続ける。そういうオーウェルという人間が限りなく面白い。

今回オーウェルを書くにあたって、いろいろな本を読み返したりネット検索したりした。『ナショナリズムについて』という読み落としたエッセイを読んで、日頃、「ウヨク」だとか「ヲタク」だとか「ネオコン」だとかの言葉を一括りの代名詞であるかのように個人攻撃のような感情的悪罵をしがちな自分に反省したりもした。オーウェルという対象に対してオーウェル並みに対象を解き明かすことへの責任感を持とうと不埒に思って、予想に反した長い駄文を重ね、不必要に言葉を要した。文章を書くことが久々に苦しく思った。目的に迷った。

『1984年』に寄り添いながら温かい気持ちにもなれた。冗漫であるというのは分かるが、暗いとか、恐ろしいとかいう作品評に出会いながら、わたしには温かい気持ちがあった。

それは「一羽のツグミの囀り」のくだりや、ウィンストンの母と妹に関するくだりの文章に綴られるようなオーウェルの素朴で飾り気の少ない実直な描写に、暗がりの中で思いもかけず心の豊かさに出会うように魅せられるからだろう。

わたしは鋭利な鋭さに隠れてしまいそうな、彼の訥々としながらも多弁で、古めかしいけれど自分の感動を畳み込まずに、写実的な説明と心の高まりの緊張をぶつけ合わせるような言葉の多い彼の自然や心境の描写がすきだ。決して上手いとはいえなくもせめて愚直なまでに読み手への伝達の客観性に誠実であろうとする彼の書き方が好きだ。

オーウェルの『なぜ書くか』を読むと、『1984年』のような主題を書くことへの厳しさから距離をとれてほぐれながらも、実直であるくせのつきまとう彼の面白さが垣間見えて、微笑ましくなるのだ。


「これまでの仕事をふりかえってみるとき、命が通っていない本になったり、美文調や無意味な文章に走り、ごてごてした形容詞を並べて、結局インチキなものになったのは、きまって自分に「政治的な」目標がなかった場合であることに気がつくのである」



オーウェルは『1984年』を命を賭して書いて、世に出してまもなく半年を経て死んだ。

彼が平和な時代に物書きをやっていたなら、野球の評論なんかを読んでみたいと阪神の試合をラジオで聞きながら思った。

門田博光福本豊みたいにおもしろい解説が聞けただろうと、そんなことを思いながら、ユーリズミックスの“juria”を聞きながら、この記事の完成を急がせていた。




GeoreOrwell.jpg







1984-The Movie
イギリスのサイト。映画「1984」のスチール画像が見れ、映画でのせりふの音声が聞けます(もちろん英語ですが。。。



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