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マルサの女


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マルサの女


1987年 日本映画
監督・脚本:伊丹十三
撮影:前田米造
音楽:本多俊之
出演:宮本信子,山崎努,津川雅彦 ,大地康雄 ,桜金造


マルサの女(1987) - goo 映画






伊丹十三の映画3作目にして、おそらく多くの人がこれが伊丹映画の代表作として挙げるかもしれない名作。僕が見た伊丹作品も『お葬式』でもなく、『タンポポ』でもなく、これが初見だった。

80年代の初期のフランスで映画の変革期が訪れ、新しい監督世代として、ジャン・ジャック・ベネックス(『ディーバ』)だとかレオス・カラックス(『ボーイ・ミーツ・ガール』)やリュック・ベッソン(『最後の戦い』)という顔ぶれの新しい感覚を持った映画作家たちが現れた。彼らの傾向や共通軸をロック・ミュージックの分野で「渋谷陽一」的に喩えてみるならば、プログレだとかディスコ全盛の商業主義的傾向のポップミュージックを打破・唾棄するアンチカウンターとしてパンク・ニューウェーヴ世代が勃興した流れと同じようなものだと言える。

そういうフランス映画のパンク・ニューウェイヴ的作家世代と通じるような斬新さで、新しい感覚の表現を創出し、同時にマスとしての大衆にペイできる胃の腑の強い作品を提示したのが伊丹十三の真骨頂であり、その最も影響力を行使し得たピークが、この『マルサの女』だったのかもしれない。


刑事やヤクザやアウトローが出てくるわけでもなく、「税金の取立て」という一見地味な筋書きがアクション映画に似た高揚感を生み出す。国税庁査察官という肩書きの人間たちに焦点を当てた映画なんて誰も想像してなかったし、それが立派にカタルシスを観客に与えるものだと信じて、実行して成功できるような、とんでもない先見性とセンスと実力が伊丹監督にはあった。

伊丹十三という作家はある意味日本人離れした理知を持った人ではあったかもしれないが、決して前衛的な方法を駆使する孤高の芸術家ではなかった。どのようにすれば売れるのかを、つまり「どうやって観客と同じ視線に横たわるか」を忘れずにいられる、商業ベースの人だった。

特別なアングルを使うわけでもない。だけど、この映画の冒頭のカットが乳房を貪り吸う老人の姿から始まるとき、いったい何の映画が始まるのかと一瞬撹乱させられる。山崎努が演じるこの映画の悪玉権藤が秘書に電話を放り投げて浮かれるシーンの仕草なんか、僕の映画好きの大学の先輩なんかは「この映画のシーンで一番強烈だった」と事あるごとに述懐する。それにマルサが査察に踏み込むときに所持したショルダーバックみたいに大きな携帯電話。あれに時代(古いと言う意味での)を感じる、という向きの方もおられるようだが、僕はむしろああいうものは伊丹映画でしか使用されないような小道具だからこそ、いつ見ても新鮮さを感じる。そしてTV番組のBGMで使い回されて何度聞いてもすぐにこの映画をまた観たくなるようなサントラのテーマ曲。もはや伊丹映画の代名詞みたいに存在を誇示するような語り草となった本多俊之の五拍子リズムの印象的なテーマ曲だが、過去の邦画には全く有り得なかったこの映画のスピーディーなテンポの完成度と相俟って、ある種日本映画で最も普遍的なサウンドトラックの一つのようにすら感じる。

脱税アクション(?)映画という奇抜な主題や、悪役・権藤の描き方、演出や撮影・美術の細やかな仕掛け一つ一つが一見奇をてらったかのようなデフォルメのようであったり、過剰なまでに監督独自の賛否両論的に顕示されるセンスが「これでもか」と言わんばかりに出てくるのが伊丹作品の特徴。しかしドラマ進行の語り口は生真面目すぎるくらいオーソドックス。そして描かれる人物一人ひとりの個性や舞台の役目を丁寧に描き分け、誰一人無駄な登場人物がない(伊丹映画でのキャストのエンドロールではほぼ全てのキャストに役名がきちんと付いてるのに注目して欲しい)。そして物語の主要な人物、主人公とそれと対峙する「悪役」の人間性を深く掘り下げて、随所で印象的に見せていて、決して平板ではない。冒頭の乳吸いシーンだとか脱税者の「特殊関係人」の女が素っ裸になって査察官に毒づくシーンみたいな、ほとんどマンガでしかやらないようなグロテスクな平面性とは対極的に、脱税者・権藤の息子思いな一面や、主人公・板倉亮子と権藤の恋愛にも似た関係の描写などが、アンバランスな矛盾に揺れる様にありながら、しっかりと人間描写の正統的方法として真摯に叙述されている。

「変なキャラだよな」みたいな強烈さがありながら、「こんな奴、いるよなあ・・・・・・」みたいな実感がわざとらしくないわけだ。

そういう人間の「写し方」が、「生き様」という言葉にありがちな大仰さに集約されず、コミック感覚にエキセントリックで普通のドラマの数倍クールに洗練されてるのに、人間の「描き方」に気づかれないようなぐらいの気遣い方で泥臭かったりする。

四季に割り振る章立てで進行して、税務署職員時代の板倉と権藤の別れ方に使った小道具を、査察のクライマックスを越えた後、夕刻のラストシーンにこっそり「仕掛け」として用いたりする(それがドラマの結末の鍵になる)。前者のシーンで息子に金を残す方法を思案して聞かせる権藤との会話を遮断して立ち去る亮子に「待ってくれ!」と言いつつその場に権藤は残される。そして全てを終えるラストシーンで、遊んでいる幼児の姿を眺めながら権藤の呟く台詞が淡々と染み入る。「このごろああいうのを見ると自分の手のひらから幸福がすり抜けていくように感じるんだ」。

自分の元で働かないか、と亮子にプロポーズ(と言うのがふさわしい気がする)する権藤に、黙って亮子はゆっくり横に首を横に振る。

そして権藤が最後に亮子に託すもの・・・・・・そこまでの、そういう、人間に対する、なにか、監督の、生真面目で執拗なほどまでの「心優しさ」とも言える、創作の気遣い方。


そういう部分に伊丹十三の本質があって、野暮に言えば「貫かれたヒューマニズム」と言うようなものだという気がする。そしてこの人は、そういうものは野暮なんだから、色鮮やかにキラキラする装飾の中のほんの隅っこの引き出しの中に、誰にも知られないようにこっそり忍ばせて置いておく、そういう粋な心優しさを控え目に懐に抱えた映画作家だったんだと思ったりする。

そんな伊丹映画のエッセンスが最もストレートな形で抽出されているのが、この『マルサの女』なんじゃないだろうか。



以後、「○○の女」タイトルの形はいろんなテーマとキャラでシリーズ化された。それぞれの作品の主題は同時代的とも先見的とも見える感じで、いずれもエンターテイメントなドラマの機軸をブレずに時代を切り取り映し出した。それはバブル崩壊前の地価狂乱状況の喧騒であったり(『マルサの女2』)、「任侠」としてではなく「反社会的な暴力の象徴」としてヤクザを映画で描き、それとケンカして勝つ方法まで教えてくれる作品だったり(『ミンボーの女』)、社会問題として宗教団体の犯罪やスーパーの商品偽装を先取りして予見させたようなもの(『マルタイの女』、『スーパーの女』)だったりする。

そういう作品の危ういテーマ性もあって、実際に伊丹十三は凶行に襲われたりスクリーンを引き裂かれる事件に遭遇しているわけだが、伊丹映画にまつわる独特のブラックユーモアとかパロディセンスとか、なによりも絶大な大衆性を備えていたことが影響していたせいか、彼の作品性のシリアスな一面と実際に作品がもたらしたファナティックな社会的影響との関係について切実に論じられた場面は、今から思い起こしてみればだが、意外に少なかったような気がする。

伊丹十三のほぼ晩年の頃だっただろうか、彼のデビュー作『お葬式』と同じくATG映画でのデビュー作出身の、現在に到るまでただの2作しか映画を作っていない某映画監督のトークショーを観に行ったことがあった。そのときになんとなく印象に残った話の一つに、その某監督が伊丹十三とデビッド・リンチの二人について徹底的に過小的評価を下していたことだった。その当時も思ったことだし、今でも何故と思うのだが、今現在におけるまで、その某監督に限らずとも、映画の批評場面において(特にATG系の映画を芸術映画の「正統」と評価する人々の間で)、伊丹監督作品について「正当」に評価されていないという思いが僕にはある。評価とまで言わずとも、伊丹映画がもたらした日本映画の映画史的位置づけを定められず、他の物故映画作家やその作品群と同じ批評的俎上に並べられないまま、いまだに「異端児」というか「在って実は無かったことのように」意識されていないように、映画を批評する玄人事の問題として、僕は批評の側の怠惰を感じるのだ。

そういう怠惰という実は瑣末な事柄と、伊丹十三の急逝について思い巡らすときに、僕は伊丹監督自身の悲劇性や、彼の残した作品が彼の自死を持って露呈させたかのような予めずっと以前から在りながら知られてこなかった切実な陰り、といったものを感じ取っている気がする。切実、というのは、或いは、やり場の無い、と言い換えてもいい。理知的に捉えているが故の悲劇性、というようなものだ。

ATG映画という芸術至上主義的空間から、一気にマスの混濁するエンターテイメントに滑り降りた伊丹映画は、絶えず奇抜な表層とマスが求める商業的立場との間を理知的な視点で激しく振幅を繰り返していたのか。そしてそういう事柄は巧妙なアイロニーなどによってカムフラージュされた伊丹映画の中には表層には現れずに、作家としては皮肉なことではあるが、伊丹監督自身の結末によってしか最終的には私たちには届き得なかった、理知的であるが故の、切実な陰りであり、やり場の無さというような悲劇性だったのではないかと僕は思う。

伊丹十三の唐突な自殺を知って、しばらくして、僕はなんとなく、同じような運命を辿った創作者として芥川龍之介を思い出していた。



『マルサの女』の夕刻のラストシーンを思い起こすたびに、権藤が亮子へのメッセージをナイフで指先を切りつけて託すあの場面を見るたびに、伊丹十三という人がどんなふうにか人間を理解していたかを、もしかしたら、どんなにか人間について諦念の中で心優しく見定めていたかも知れぬかを思う。

そして、彼が上手に隠していた、実は骨太く泥臭い感じの、純度高く蒸留されたヒューマニズムみたいなものを見つけ出せるように感じる。


最も巧みで機知に富んだ小賢しい隠し事のなかにこそ、一番、人が人に敢えて告げない、いかにも人間らしい小賢しくも身の丈そのままの姿があるのだ。

これはそういう、隠し事についての、脱税の映画。





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(2005/08/24)
宮本信子

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