Vich-Review

読書と音楽と映画の寸評

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自殺サークル

 

jisatu




自殺サークル


2001年 日本映画
監督・脚本:園 子温
出演:石橋凌 永瀬正敏 さとう珠緒 野村貴志 室生舞 ROLLY


あらすじ-goo映画



ファシズムとしての自殺症候群 「さあ、ここへ飛べ!」


人間は本来、死の不安(あるいは生の不安)というような極限状態、あるいは緩やかな絶望の連続に置かれると、自殺か他殺という二極化へ向かうとわたしは考えています。これは個人の心理状態だけでなく社会の動向にも応用できそうで、いま日本社会が右傾化していっていますが、右傾化というのは社会が他殺に向かうベクトルだと思うのです。弱者叩きやステレオタイプな民族差別は経済構造の変化やモラルハザードによるアノミー(無秩序化)によって、自己不安に駆り立てられた人間の、自己脆弱感の吐露のようなものだとわたしは考えています。自己脆弱感の吐露といったものが社会の動向において自殺のベクトル向かうとどうなるかといえば、カルトの勃興だとかネットを媒介にした集団自殺という感じで現れるのでしょうか。


右傾化だとか国粋主義というのはしょせんは根っこの弱い愚弄な人間たちの個々のエゴが生にしがみつく形で巨大なムラで人を束ねるようなものです。わたしたちがありきたりに昔から目撃してきたファシズムでしかない。ところが自殺というのは生へのしがみつきを嘲笑うかのように「いち抜けた」的に社会のゲームというか劇場というかそういう枠組み自体をすっぽかしてどこにもいなくなるわけですから、生きたい人間にとってはこれは自分たちの生きるための泥試合に更に泥をぶつけられるような屈辱であります。一人や二人の人間が死んだぐらいでは社会的淘汰でしかないのですが、これがカルトやネットを媒介にして集団自殺という形をとると、これは生きる側の人間のモチベーションをずたずたにする立派な負のアナーキーな破壊活動ですよね。しかし個々の自殺とはまた違った意味合いを持つネット集団自殺というのは、いくらアナーキーであれ、アジテーションみたく自殺を演出し「普通」に生きる人々に対し何らかの強迫観念を植え付けることで自殺を目的化してると、これはもう立派なファシズムだと言わざるをえないわけです。


映画「自殺サークル」はいろんな意味で、見た後に、実に消化不良と不安に襲われる映画でした。


電車のホームで女子高生数十人が一斉にダイビングして集団自殺と言う事件に端を発し、映画全編謎の自殺事件が相次ぐのですが、結局最後まで事件の真相も何もかも明かされずに終わります。明かされないまでならまだしも、事件の黒幕みたいなカルト集団が現れたり、事件に「モーニング娘。」みたいなロリアイドルの関与を匂わせたり(わたしはもともと嫌いだった「モーニング娘。」がこの映画を見て嫌いが生理的嫌悪に変わった)、すかんちの元ボーカルのROLLYがチャールズ・マンソンみたいなことしてたり、事件のつながりめいたものをいろいろ提示するのですが、すべて真相とは関連のない事柄として不発に終わる。終わってみれば、そうした様々なアイテムみたいなのが現代の諸相の特異性みたいなのをグロテスクに露出させている、なんともいえない不快感だけが残るんですね。この映画は自殺念慮がある人はあまり見ないほうがいいと思います。安易な解釈を許さない点において「バトルロワイヤル」なんかより潜在的に社会的影響力が強いんじゃないでしょうか(それゆえにマイナー映画なんですけど)。そういう意味で傑作でしょう。


作品として決して救いようのない駄作ではないです。監督は「観客に露悪的な不快感をもよおすようなものが作りたかった」云々みたいなことを述べておりますが、かなり成功してますね。真相探しではなく「藪の中」の薄気味悪さの表現が目的なのでしょう。


特別に感じ入ったのは石橋遼の自殺シーン。カルト集団のメンバーみたいな子供と電話で話して発作的に拳銃をドタマにぶっ放すのですが、この電話の内容がこの映画に描かれた、通常の自殺パターンとは異なる自殺心理を非常に饒舌に説明してるように思いました。わたしの解釈ではカルトは日常生活における関係性の不在について徹底的に挑発するわけです。他者と自分との関係性、更には自分が「自分」に関係する=主体的に自分を生きられてるかについての自信のなさに揺さぶりをかけるわけです(「あなたはあなたの関係者ですか」という電話の台詞が戦慄的・・・)。そして自殺した後の自分自身や他者との関係性の永続みたいなことについて語って、自殺を誘発させるわけです。倒錯した論理ではありますが、よほど関係性の概念について強固な信念でも持っていないと、石橋遼でなくてもこめかみぶち抜きそうですね。「ここに向かって飛べ」みたいなプラカードを持った女の子が路上にたっていたり、この映画の世界では盛んに自殺を誘発します(映画がじゃないです、作品の中の世界が)。自殺ってのは非常に個人的でデリケートなものだと思うのですが、この映画ではファッショの運動みたいに和気藹々と、または追い詰められた集団自決のように、みんながわけもなく、個の論理とは関係ないところで死んでいくのです(冒頭の女子高生らによる電車ホームに集団ダイヴするのが露骨にメタファーです)。関係性の不在がまるで自殺というイデオロギーに補完されたみたいに自殺が位置付けられているわけですね。


50507es.jpg


「普通の感性」が「普通」の顔をした「異常」に包囲された日常


昨今のネットがらみの集団自殺のトピックに触れるたびに、この映画を思い出します。わたしなんかはものすごくエゴが強い人間なもので、芥川龍之介みたいな自殺にどちらかというと魅力を感じますが、芥川の自殺は自殺を対象化して語り終えて死んでいるあたりがエキセントリックです。翻って、この映画に繰り返される自殺の凡庸さ、生きてる人間への面当てみたいに自殺が茶化されるところの卑屈さの平凡さ。自殺がなにか社会に一発食らわせる自爆テロのように物事を強引に揺らすための暴力装置というか、日常の営みの永続性を梯子崩しのように否定しようとするエゴイスティックな手段でしかありえないんですね。明らかにうつ病によるものだとか、リストラされて苦に病んで、みたいな動機に基づかない、こういう自殺。動機が非常にグレーゾーンで結構どうでもよくて、重要なのは、自殺が物言わぬアジテーションのようにパフォーマンスされている点です。ファシズムと同じように。皆が一様に一酸化炭素中毒で練炭炊くのも非常に没我的ですしね。自殺というイデオロギーに突き動かされるように自殺がファッショの破壊行動のように人々を収束していく。お昼休みの中学生が屋上から突発的に次々と飛び降りていくシーン、その終盤なんか、このあたりのことを巧く表現していますよね。まるで戦時中のサイパン陥落時のバンザイクリフの光景はこんなのだったんじゃないか、という感じで自殺がファシズム。


この映画で描かれる自殺はまるで個々の生き方・死に方を度外視するようなファシズムです。自己の脆弱さ、関係性の不在を、ネットを媒介した国粋主義・排外主義的匿名集団の中でコソコソとした自己顕示欲を発散させながら克服しようとするネット右翼のファシズムと表裏一体の逆ベクトルなのです。思えばネットを媒介した集団自殺だって、脆弱なくせに顕示欲旺盛な自己が「一人で死ぬ」という社会淘汰的な結末に耐えられないからこそ、ネットという関係性をテコにして結集して、お決まりどうりの練炭使って、スキャンダラスに社会に一撃!!みたいに社会に対するドグマチックな表現なんですね。ただ、そこに自己が死んでる。脆弱な自己が寄り集まって集団をテコにして歪んだ形なりに自己を実現しようとする。その辺は、結局ネット右翼の心理と同じで、平凡でありきたりなのです。翻って言えば、オウムのようなカルト集団の病理とネット右翼やネット集団自殺の病理はよく似た傾向を孕んでいるように思えます。ただ、国だとか集団からの排外主義で仮想的に結束することのステレオタイプな自己放棄・生への執着を思えば、カルトや集団自殺は社会の何たるかにすら関心もなく「いち抜け」て、自殺というイデオロギーでより凄惨に、より嘲笑的に、自己どころか生きることすら放棄して、生きる側の者のこざかしい結束すら見下すように消えていくのですから、より過激なファシズムといえるかもしれません。


この映画は不安に囚われやすい人は見ないほうがいいです。死語ですが、「実存的な不安」にとりつかれている精神に激しく揺さぶりをかけます。でも「モーニング娘。」みたいなロリコン趣味としかいいようのないアイドルが市民権を得たりする現代のもはや「当たり前すぎる」ものとなった特異性や、チャールズ・マンソンみたいなキャラを呼び起こしたりとか、子供に率いられた不気味なカルト集団だとか、見事に露悪的なアイテムを用いることで、言いようのないわたしたちの不安を提示したことに関しては、真相の見えない結末と相まって、見所のある作品だとはいえます。この不気味さについて社会学的には拝金主義のなれの果てだとか、アノミーの拡大だとか、右傾化への面つぶしだとか、いろんな解釈を見出すことは可能です。しかし個の関係性に強い説得力を自己に持ち得ないからこそ、鉛の銃弾はあんなにも突発的に石橋遼を殺したといえるのではないかと思われます。


関係性の荒廃というあまりに殺伐とした風景が個を脅かしている。社会に対して右だとか左だとかに振幅して、いびつな仮想空間だとか、躁状態に狂ったメディアに自己を同一化させて「反日」を叩いたり、「JR」をいじめたり、もしくはその反対のスタンスで顕示欲を満たせるうちは健常なのです。そういった喧騒から遠いところで、与えられるままに運命を受容し、個の生き方を貫徹させようとする素朴さの平和を許さないとばかりに、個をとりまく関係性が脆くズタズタに切り刻まれていく。個が包囲されている。当たり前に生きていくことすら強固な信念を必要とさせられたり、「普通の感性」が意識的な努力によって模索されなければ「普通」な顔をした「異常」に足元を掬われるアヴノーマルさ加減こそが、わたしたちをとりまく状況の馬鹿馬鹿しさであり、生きづらさ、死にづらさであるような気がします。



0507ds.jpg



自殺サークル自殺サークル
(2002/07/12)
石橋凌永瀬正敏



スポンサーサイト

回復的文章

回復


管理者對此表示許可

Trackback

http://vichreview.blog116.fc2.com/tb.php/6-2285d393

 | HOME | 

ClockLink


無料ブログパーツ

プロフィール

hemakovich

Author:hemakovich
慢性鬱状態で活字を追うのは苦痛です。
電気ショック療法を受けたみたいに、
直前に読んだページの内容を忘れます。

思春期の衝動が、ハードロックに向かうか、
パンクに向かうかで、
人間の感性って分かれ道になるみたいですね。
自分はパンクでした。

たけしの映画より、
村川透のブルーがきれいです!
村西とおるのサイト、いいです!


My Profile by iddy


カテゴリ

index (1)
Book (13)
comic (1)
essey (1)
novel (8)
nonfiction (2)
その他 (1)
Music (15)
邦楽 (6)
洋楽 (8)
コンピレーション・サウンドトラック (1)
Cinema (21)
邦画 (7)
洋画 (13)
その他・PV (1)

PIXIE


最新記事


FLOQ



最新コメント


最新トラックバック


finetune



月別アーカイブ


ALPLAYER



メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。